予告通り今回は梶原景時の変です。『変』が正しいのか『乱』がいいのかわかりませんけど、個人的には『乱』にはなってないんじゃないかと思いました。
大河ドラマなんかをご覧になっている方は、よくご存知ではないかと思います。『鎌倉殿の13人』なんかはこの辺がクライマックスなのではないでしょうか?私は大河ドラマがどうにも苦手で、この事件のこともわかっていないので、しっかりおさらいしようと思います。知らない事を「おさらい」って、そこが『変』ですけど
さて。
治承寿永の乱で義経と超仲が悪かった梶原景時ですが、頼朝には心底信頼されていたようです。
と、いうのも、1180年(治承4年)に小田原で頼朝が惨敗した時、梶原景時は同じ鎌倉氏の大庭景親(おおばかげちか)と一緒に頼朝軍と戦っているのですが、頼朝がわずか6騎になって山中に逃れると、大庭景親の追討から頼朝たちを匿っているんです。『吾妻鏡』や『源平盛衰記』など、複数の書物がこの出来事に触れているのですが、物語になるとこういうことって大体「頼朝がただならぬ雰囲気を醸し出していて追手が途端に心を入れ替えた」とか、「もはやこれまで!と自害する頼朝を可哀想になってとめた」とかいう美談に書かれがちで、この時の景時と義経のことも例に漏れず、です。
本当のところはどうなんでしょう?『源平盛衰記』に書かれていることから余計な装飾を取り除くと案外ありそうな遣り取りになりそうです。
梶原景時が自殺しようとする頼朝を見て、どうせ再起の芽はないだろうし、目の前で死なれるのも寝覚め悪いな、くらいの感じで声をかけます。
「いや、あんた元から流刑人で、身ひとつだったわけでしょ。今回ゼロからの挙兵だったんだから、元に戻っただけだろ。逃がしてやるから、そんなに悲観すんなって」
頼朝を軽く見ていたとしたら、こんなことも言いそうです。そして、別れ際に
「あんちゃんがビッグになったら、おいらのこと使ってくれよ」
と、酒を奢ってやった若手芸人に対するビートたけしのようなことを、たいして期待もせずに言ったとしても、不思議じゃないでしょう。
その頼朝がたった2か月で10万の大軍を率いて鎌倉に入ったら……赴かざるを得ないでしょう。本人は踏みつぶしかけた虫を見逃したくらいのつもりが、巨象になって帰ってきちゃった、という感じだったという私の妄想です。
ただ、『愚管抄』だと最初から頼朝軍で戦っていたことになっているらしいです。
行動型の武将揃いの源氏軍の中で、景時は理論派というか、わりとかっちりした官僚タイプの軍人だったようです。各種資料を読んでいると、報・連・相がきっちりしてて、理論に基づいて作戦を立てるようなイメージが浮かびます。だとすれば、天才肌で発想や行動がぶっ飛んだ義経と合わなかったのも想像に難くないですが、義経に景時をつけたくなる頼朝の気持ちもわかりますね。暴れ馬の手綱をしっかり握っといて欲しかったんでしょう。
一の谷合戦の時も、景時は義経と迂回路をゆくはずだったそうです。でも、源範頼と土肥実平も合わなかったらしく、土肥実平と景時が持ち場を交代して、景時は生田口で「梶原の二度駆け」と呼ばれる武勲をたて、実平も平資盛たちの掃討戦の後に塩屋口の熊谷直実と合流するという、超かっこいい働きをします。(治承寿永の乱 後半参照)
ただ、その後の景時はことごとく義経と対立し、「喧嘩別れした後、きっちり準備を整えて屋島に行ったらもう戦が終わってた」という失態を冒してしまいます。後世の私たちから見れば仕方ないんですけどね。なんか、義経って天才肌で、自分の頭の中にあることを人に説明するの苦手そうで、途中でうまく説明できない自分自身にも苛立ってきて「ああ、もういい!ついてくる奴だけついてこいよ!」とか言って出ていっちゃいそうです。(治承寿永の乱 後半参照)
もし、土肥実平とはうまくいってたんだとしたら、実平は「あ、この人何か考えがあるんだろうな」とか、察してくれる人だったか、「義経さんは好きにやらせた方がいいタイプだから」と、ある程度放置しちゃう人だったんじゃないでしょうか?景時は、上司部下に対する責任感もあって、自分もしっかり納得してからじゃないと事を進めないんでしょう。
何をだらだら書いているかと言うと、梶原景時が讒言で人を陥れる、という疑惑が事件の発端になっているからです。
その讒言の最初の餌食というか、彼が讒言をしていた証左とされるのが、頼朝に送った合戦報告で、「判官殿は、私が何度諫めても聞いてくれず、逆に私に腹を立てます。このままだと怒りに任せて処断されかねません。関東に帰りたい」ということが書かれています。ただ、義経に振り回されて不満を感じているのは景時だけではなかったので、これは一方的な讒言というわけではなかったはずです。この件で、義経は鎌倉に行くことが許されず、京に残ります。
他にも、夜須行宗と畠山重忠も讒言を受けたとされていますが、どちらも景時が間違っていたことが証明されています。逆に景時が頼朝に赦免を進言した人もいます。曾我兄弟とかですね。
ただ、源頼朝が征夷大将軍として鎌倉で幕府を開いた後、梶原景時は侍所所司(さむらいどころしょし)という役職についていて、論功行賞などの人事考課をする仕事についていました。多分、組織内警察というか、検察庁みたいなポジションだったんじゃないでしょうか?
頼朝としては、たとえ味方と言えども不実や不正を許さない性格の景時を信頼していたから、この役割を任せたのでしょうが、まだまだ創業期の組織というより仲間意識で動いていた幕府で「捜査は決めてかかって、間違っていたらごめんなさいでいいんです」みたいなことをやっていたら、それは恨まれるでしょう。そこまでやってなくても、「なんで俺の仕事にいちいちお前の査定受けなきゃなんねえんだよ」とか思われそうです。組織が出来上がってからだったら、良かったのかもしれません。
景時が所属している侍所所司のトップは和田義盛だったのですが、1192年に景時と交代しています。『吾妻鏡』では、景時が「一日だけでいいから」と変わってもらい、謀略を巡らせてそのまま別当の地位を奪ったと書かれています。
上で書いた私の勝手な妄想を基にするなら、「和田殿はヌルい。俺の方がうまくやれる!とりあえず名目はなんであれ、交代して実績を示せばいい」と思ってのことかも知れません。
1199年(正治元年)に源頼朝が死去し、嫡男の頼家が家督を継ぎます。異常なまでの求心力で東国武士たちを引き寄せていた頼朝を失うと、武士たちは次第に体制への不満を表に出すようになり、頼家には采配を許さないとばかりに、幕府を宿老13人での合議制にしてしまいます。この13人の中には、梶原景時と和田義盛も入っていました。
そんなある日、13人の一人である結城朝光(ゆうきともみつ)が、
「俺、今朝夢を見たんだ。頼朝様のために、一人一万回『南無阿弥陀仏』を唱えないか」
と言い出します。それにはみんな賛成し、各々名号を唱えます。
これがどういう場で周囲に誰々がいたのかはわかりませんが、多分、みんな頼朝を思い出して、頼朝を懐かしむような雰囲気になっていたんでしょう。朝光は、
「『忠臣は二君に仕えず』って言うじゃん。俺、頼朝様が亡くなった時に出家しとけばよかったって思うんだよ。あの時は、頼朝様の御遺言があったから、思いとどまったんだけどさ。なんか、今はいろいろ心許ないしさ」
的なことを言います。結城朝光は頼朝の乳母の孫で、元服の時は頼朝が烏帽子親になっており、以後も頼朝の傍近くに仕えていたので、その時はその場にいるみんなも「お前がそう思うのも無理ないよな」って感じだったそうです。
二日後、結城朝光は阿波局(あわのつぼね)と顔を合わせます。その時阿波局は朝光に
「貴方、誅殺されるわよ」
と言います。おそらくは「へ?」って感じだっただろう朝光に、阿波局は続けます。
「『忠臣二君に仕えず、だから出家すればよかった』って言ったんですって?梶原景時がその事を知って『現将軍を馬鹿にしている』って将軍に言いつけたの。それで将軍も『見せしめに死罪にしろ!』って言ってるわ」
予想もしなかった展開に、朝光は親友の三浦義村(みうらよしむら)に相談します。事がここまでに至っているんなら、と三浦義村はアンチ梶原の有力者に根回しをし、景時を批判する連判状を作成してもらうことにします。そしたら、翌朝には66人の署名捺印入りで出来上がって来たので、幕府別当の大江広元を通して将軍頼家に渡しました。
頼家はすぐに連判状を景時に渡し、書かれている内容について弁解をするように言ったのですが、景時は何の弁解もせず、三男の景茂だけを残して後の一族ともども故郷の相模国の寒川神社(神奈川県高座郡寒川町宮山)に下って謹慎します。
年末に一度景時を鎌倉に戻して連日審議が行われましたが、アンチの反発が強く、結局再び鎌倉を追い出されます。景時の鎌蔵屋敷は取り壊され、永福寺に寄付されます。景時の領地だった播磨の守護には小山朝政(おやまともまさ)が、美作国(岡山県北部)は和田義盛が任じられました。
ここまで、『吾妻鏡』に沿って書いてきましたが、九条兼実(くじょうかねざね)の日記『玉葉』や、藤原定家(ふじわらのさだいえ)の日記『明月記』にも梶原景時が鎌倉を追われたことについて書かれています。ただ、どちらも書かれていることが違っているので、リアルタイムでは情報が錯綜してたことが窺えます。ちゃんと読んだわけではないんですけど、『玉葉』は伝聞したこととして書かれているようですし、『明月記』は、「景時が逃げたから気をつけるようにという沙汰があった」程度の事しか書かれていないようなので、この先も『吾妻鏡』に沿って書いていきます。
年が明けて、頼朝の一周忌も済んだ1200年(正治2年)1月21日、相模国の原宗房(はらのむねふさ)が鎌倉に飛脚を寄越します。曰く「梶原景時が、寒川神社に城郭を作っていたので、怪しいなと思って見ていたんですが、昨晩息子たちを連れてこっそり出て行きました。謀反を企てて上洛するつもりのようです」。それを受けて、北条時政や大江広元などが集まって会議し、梶原景時の討伐に、三浦義村(みうらよしむら)、比企能員(ひきよしかず)らが向かいました。
この時、武田有義(たけだありよし)が梶原景時と内通して謀反を企てている、と鎌倉に知らせたのが、原田種雄(はらだたねかつ)で、その功績で筑前秋月荘の領主になったと、『秋月家譜』には書かれています。(筑前秋月家 その2参照)
『吾妻鏡』では、梶原景時が滅んだ後の1月28日に武田信光がやってきて、「兄の有義が、梶原景時と意を通じて京に上ろうとしてると聞いたので、有義の家に行ったらもう誰もいなくて、ただ、手紙が一通残されていました。見ると、景時からの書状でした。謀反の意は明らかです」と言ったと書かれています。書状には、九州の武士を糾合するために京に上ることや、甲斐源氏の出である武田有義を大将軍にしよう、ということが書かれていたんだそうです。
原田種雄がこの時どこにいて、どうやってこのことを知りえたのかはわかりませんが、『物語秋月史』の中で三浦末雄先生は、「秋月は武田有義が支配する土地だったので、そこを召し上げて原田種雄に与えたのではないか」と考察なさっています。真偽はわかりませんが、もしその通りだとすればこの不審点だらけの出奔事件は……。
さて、1200年(正治2年)1月21日の梶原景時に戻ると、昼前に駿河国清見関(静岡市清水区)に差し掛かったあたりで、在地の武士が弓を競っているところに偶然出くわします。在地の武士たちは「なんか怪しい奴」と景時たちに弓を射かけ、逃げる景時たちを四人の武士が追います。
狐崎まで戻ったところで、景時たちは反撃し一人を討ち取りますが、その時相手方の仲間の武士が追いついてきます。その後も景時たちは退きながら戦い、結果、景時・景茂・景高・景則以下、梶原勢33人が首を晒されました。
梶原景時の乱はこんなところなのですが、この後、頼家譲位の誤報が流されたことを発端に比企能員が殺され、畠山重忠、泉親衡(いずみちかひら)、和田義盛と、次々に北条氏の手によって殺されていったのをみると、どうにもこの梶原景時が北条氏による粛清の最初の一人だった気がしてきます。"偶然"在地の武士が居合わせたという駿河国の守護は、北条時政ですし。
そもそも阿波局が言ったことは本当だったんでしょうか?梶原景時の変の後、阿波局の夫、阿野全成(あのぜんじょう)が謀反の疑いをかけられるんですが、阿波局の身柄引き渡しを北条雅子が拒否しています。阿野全成は頼朝の異母弟で、阿波局は北条雅子や北条義時の兄弟なんですよね。
それに、疑惑の武田有義の一件ですが、家に一人も残っていなかったくらい綺麗に引き払っているのに、一番肝心なことが書かれている手紙を残して行ったのは何故なんでしょう?本物なんですかね、その手紙。原田種雄が有義の謀反を知らせたのなら、壇ノ浦まで源氏に相対していた原田氏の種雄が、起死回生のため北条氏に近づいてたってことは?
時代が古いわりにそこそこ記録が残っていて、いい感じに妄想の余地がある事件です。もっとも、私が知らないだけでちゃんとしたことが分かっているのかもしれません。何かご存知の方がいらっしゃれば、コメントやメールで教えてくださると嬉しいです。
次は?おお、ついにあの帝国がやってきます!
◆参考資料
三浦末雄著 物語秋月史 上巻 (デジタル化のため本をばらすのが忍びないので、まだ冊子のまま保管)
秋月種樹編 秋月家譜 (\福岡県\甘木・朝倉\あ\あき\秋月家譜)
吾妻鏡