日本の隅っこの歴史

某所で郷土史をやっていた方が集めた膨大な資料(主に紙)をデジタル化する作業のため、紐解いた内容に少々個人的な感想を交えて書いていく、覚書的な性質の濃いブログです。 手当たり次第に作業していくため、場所や時系列などはバラバラです。ある程度溜まったら整理してまとめようと思っています。

モンゴルが日本に攻めてくる話 その2

ではでは、前回の続きから


 
 オゴタイ崩御の知らせを聞いた時、バトゥはハンガリーを陥落させた直後で、当地の支配は確立していませんでした。なので、カルパチア山脈以西を一旦放棄し、急ぎカラコルムへ戻ります。しかし、この遠征中にトゥルイ家のモンケとは不仲になっていたようで、帰国後はオゴタイの後継者を巡って、次期カンとしてオゴタイの長男グユクを推すオゴタイ家チャガタイ家と、トゥルイの長男モンケを推すジョチ家トゥルイ家とが揉めて、なかなか決着がつかなくなります。
 すると、バトゥは自身の領地に戻り、1243年にはキプチャク草原のサライを首都としてジョチ・ウルスを独立政権化します。教科書でキプチャク・ハン国とよばれるのが、この年から1502年にクリミアにサライを攻略されるまでのジョチ・ウルスのことです。

バトゥ (集史より)

 オゴタイの第六夫人でグユクの母ドレゲネの様々な工作もあり、最早完全に帝国化したイェケ・モンゴル・ウルス第三代ハンに、グユクが即位しました。どうやらモンゴルにおける第〇夫人と言う数字は単に結婚した順番のようで、息子が後継者になるかどうかは母親の実家の家柄が大きく関係するようです。グユクが即位したクリルタイは、バトゥが欠席したまま行われました。
 1246年グユクは即位すると、これまた 祖父、父の拡大路線を引き継ぎ、西のイラン、南の南宋、東の高麗に兵を送ります。南宋方面の司令官は、華北を領有しているトゥルイ家のフビライを任じ、西へはイルジギデイを司令官として侵攻を開始しました。グユク自身は、リュウマチで政務が執れなかったとか言われていますが、カザフスタンのバルハシ湖周辺に私領(ウルス)を持っていたので西方遠征に同行しました。

 1247年には高麗遠征も再開されます。モンゴル側は、改めて王族を人質に差し出すことと、首都を江華島から開京に戻すことを要求しますが、崔氏政権は拒否。ならばとモンゴル側は高麗全土での掠奪・虐殺を行いますが、高麗国軍は江華島のみを厳重に守って出てくることはありませんでした。
 ところが、1248年に遠征途上でグユクが急死してしまいます。これを受けて、高麗にいたモンゴル軍はまたしても撤退することになります。

 グユクの急死により、次期カンもオゴタイ家から出したい皇后のオグルガイミシュと、トゥルイ家の長男モンケをハンにしようとするバトゥとソルコクタニ・ベキの間で揉め、4年もハンが空位のままとなりますが、結局バトゥの強力なプッシュでトゥルイ家のモンケが1251年に即位します。
 モンケもオゴタイの路線を継承し、東西へ同時侵攻します。東方・南宋方面の司令官にフビライを、西方方面司令官に三男フレグを任命しますが、両方面の総司令官職をトゥルイ家が独占したことで、他家に不満を残すことになったようです。

 高麗方面には、チンギス・ハンの弟ジョチ・カサルの長男イェグを司令官として侵攻を再開しています。イェグは、テムジン(チンギス・ハン)がモンゴル高原でケレイト部と戦っていたころ(モンゴルが日本に攻めてくる話 その1参照)から従軍していた歴戦の勇者ではありますが、この時既に60代後半だったと思われます。
 イェグが侵攻してきた1251年の2年前、高麗では対モンゴル戦争の主導者だた崔瑀(チェ・ウ)が死去し、その後を崔沆(チェ・ハン)が継いでいました。相変わらず江華島を固く守り、モンゴル軍は周辺諸城を続々と堕としていきますが、途中でイェグが病気になったため撤退します。
 しかし、周辺の国土が荒らされても一向に城から出てこず、自分達の安全だけを図る崔氏に対して反感を募らせる人々も増えていました。大陸と陸続きの半島の様子は「骸骨野を覆う」ほどだったといいます。

 一方、南宋侵攻を任されたフビライは、雲南方面から南宋を攻めようと考えて、先ずは大理国に服属を求める使者を送ります。
 トゥルイ家は華北が地盤なのに北から攻めないのは、相手の意表を突くためなのか、よっぽど長江が嫌だったのか……。川ではありますが、対岸が見えないほど広いので、船戦をやるしかありませんからね。ポーランド侵攻したバトゥは、凍結したヴィスワ川を渡ったらしいですが、長江は凍りませんし。
 そこの理由は分かりませんが、とにかくフビライ大理国に使者を送り、使者が殺されてしまいます。これを契機に侵攻を開始しますが、雲南省は今でも少数民族が多く住んでいる地域です。大理国内でもモンゴル人を恐れる人々がそれぞれの民族の族長を説得して降伏してきたりしました。そこで、フビライは現地住民の殺害を厳禁とし、首都大理に到着すると、改めて大理に降伏を勧告しました。大理国はこれを受け入れ、モンゴルに降伏しました。
 とはいえ、地形は複雑だし、大理国は現在のミャンマーの北部で、緯度的には香港やマカオくらいのところです。モンゴル人兵士は8割くらい疫病に倒れたそうです。他の大規模遠征を見てもそうですが、東西方向の侵攻は上手くいっても南北方向へ行くと気候風土の問題でだいたい苦しめられますよね。北へ行くと冬将軍とか春先の雪融けでのぬかるみとかで足止めされますし、南に行くとマラリアなどの疫病で死者や病人が出てしまいます。二次大戦時でもそうだったんですから、13世紀ならなおさらです。
 フビライ大理国を降伏させると一旦南モンゴルに戻り、改めて南宋と高麗の攻略に着手します。ただ、自身は補給基地としたドロン・ノールから動かず、漢民族の姚枢(ヤオ・シュウ)らと中国を安定支配するための方法を模索していたようです。まずは、華北支配を軌道に乗せてから南宋へ攻め込んだ方がいいと思ったようですね。

 1253年に開始した6回目の高麗侵攻では、ジャラルダイ・コルチが降伏してきた高麗の武将たちと本土を荒らしまわりました。その上で、イェグは改めて王族が本土へ戻ることと王子を人質に差し出すことを求めます。高宗はこれを承諾し、第2王子の王 淐(ワン・ツァン)を人質に差し出しますが、朝廷の重鎮たちは江華島から出て来ませんでした。
 そこで、1255年にジャラルタイが洪福源(ホン・ボグゥオン)と最初の人質の偽王子、王 綧(ワン・チュン)を率いて江華島襲撃の構えを見せますが、金守剛(キム・スガン)がモンケを説得してモンゴル軍を撤退させました。ただ、
「高麗の王族が江華島を出てこないなら、軍を引くことはできない」
というモンケに対して、
「猟師を避けて穴に逃げ込んだ獣が、穴の前で猟師が弓矢を構えながら『出てこい』って言われて出てきますか?」
といういい方で説得したようで、撤退しても出て行かなかったらすぐにまた再侵攻されることは必定です。

 そのモンケですが、大理侵攻以来動こうとしないフビライに不信感を持ったのか、よく言われるように、力をつけてゆくフビライに恐れを感じたので何かあら捜しをしたかったのか、アラムダールという人物にフビライを調査させています。アラムダールは調査の過程でフビライの下で行政を行っていた官吏を多数処刑しています。
 結局、フビライ自身がモンケに釈明したことで、この一件は治まったようですが、フビライ南宋方面の司令官から外され、代わりに、オッチギン家のタガチャルを南宋攻略に赴かせます。えっと、チンギス・カンの末の弟の孫、ですね。東方三王家(モンゴルが日本に攻めてくる話 その1参照)のオッチギン家です。
 1255年か1256年くらいから出征したようです。東方三王家を中心にかなり凄い面々を率いて行ってるんですが、1257年に襄陽の樊城を攻囲した時に、理由は不明ですが一週間で攻囲戦をやめて撤退しています。
 とにかくはやく南宋を堕としたいらしいモンケは、この撤退に激怒してタガチャルも司令官職から罷免し、自ら指揮を執って南宋に攻め込むことにします。
 この時、フビライとタガチャルも遠征に参加していて、フビライは鄂州(現在の武漢のあたり)に、タガチャルは荊山(湖北省南漳県)に、モンケは四川に進軍します。モンケは重慶を攻略しますが、ここで熱病にかかって1259年に病死してしまいます。

 タガチャルが樊城を攻囲した1257年。高麗では崔沆が急死し、崔竩(チェ・ウィ)が後を継ぎました。 この頃の高麗朝廷は、文臣を中心とするモンゴルに降伏する派と、崔氏ら武臣を中心とする徹底抗戦派に別れていました。が、崔氏への不満もだいぶ溜まっていて、ついに1259年。文臣の柳璥(ユ・ギョン)と武臣の金俊(キム・ジュン)らが崔竩を暗殺してクーデターを起こし、崔氏政権を打倒します。
 高宗(まあ実際は柳璥でしょうが)は早速モンゴルに国書をしたため、崔氏が滅亡したことと、モンゴルに全面降伏することを伝えます。そして、モンゴル側の要求の通りに王太子の王倎(ワン・ジ)を人質としてモンゴルへ送り、王族や高官も皆江華島を出て首都を開京に戻しました。さらに、現在のいわゆる北朝鮮の北部ほとんどはモンゴルの直轄領となり、その他、さまざまな地位の格下げや、王の諡号の廃止、王子にはモンゴルの娘を娶らせることなどまあいろいろと条件を飲まされましたが、国家としての高麗は残った南部のみで存続することとなりました。
 文臣が腐っているからと武臣が政権をたてたはずなのに、自分たちが特権階級"におさまって"武"をもって人々を守らなくなってしまったために、高麗は国の独立を失ってしまったんですね。

 人質に差し出されることになった高麗の太子王倎は、1259年に朝鮮半島からモンゴルを目指しますが、先に書いた通りモンケは四川で病死してしまいました。モンケに拝謁することが出来なくなった王倎は、ドロンノールに戻ろうとしていたフビライに会い、どうもそのままフビライと行動を共にしていたようです。
 さらに翌1260年。王倎の父親高宗が崩御したため、フビライは王倎に高麗へ帰る許可を与えます。王倎は、入れ違いに息子の王僖をフビライの下へ送り、フビライから朝鮮国王の冊封を受けます。

 そんなことをしているフビライですが、モンケが死んだことで他の兄弟たちとハン位を争うことになります。
 1259年の時点で、モンケの息子たちはまだ幼くハン位をつぐことはできませんでした。なので、モンケの兄弟たちの間でのハン位争奪戦となったわけです。


 イェケ・モンゴル・ウルスのハンを名乗るには、首都であるカラコルムに戻り、クリルタイを開かななければなりません。
 この点で有利だったのは、モンゴル高原で兄たちの留守を守っていたアリクブケでした。アリクブケは「モンゴル民族は伝統的に末子相続だから"ハン"を継ぐべきは自分だ」と主張します。オゴタイ家のハイドゥ、チャガタイ家のオルガナ、モンケの旧臣たちなど有力者の多くがアリクブケを支持しました。

アリクブケ (集史より)

 モンケが亡くなった時中東にいたフレグは、カラコルムから遠く離れすぎていました。フレグがモンケの訃報に接したのは1260年になってからのようで、イェケ・モンゴル・ウルスのハン位を早々に諦め、中東でイル・ハン国とも呼ばれるフレグ・ウルスを独立政権化します。こっちもこっちで、マルムーク朝のバイバルスとかビザンツ帝国とかと戦わなきゃならないので、とてもモンゴルまでは戻れないでしょう。
 フレグは、オリエントを頂いちゃってるんですね。フレグ・ウルスは、現在のトルコ・シリア・イラン・アフガニスタンあたりを勢力圏にしていたようです。こっちの方の事情も面白いですが、これ以上広げるとどうしようもなくなるのでやめましょう。

 フビライは、先に言った通り鄂州を攻めに行こうとしていました。アリクブケ達は、フビライが急いで戻ってくるだろうと思っていましたが、フビライは構わず南下して鄂州を攻略します。華北を本拠地にし、漢民族を多く徴用していたフビライの軍では、ここで慌てて撤収すると、多くの離脱者がでる可能性があったのです。加えて、あえて遅れて行動することで、遠征途上で指揮官のモンケを失った兵たちと、タガチャルやウリヤンカダイの軍と合流し、傘下に加えることができました。そりゃ、総司令官が亡くなったからって自分たちを見捨ててとっとと帰っちゃう部隊指揮官より、自分達に対してちゃんと最後まで責任持ってくれる指揮官の方が信頼できますよね。 
 ウリヤンカダイなんかは、フビライが鄂州に留まってくれたおかげて命拾いしたと言っていい人です。この人はかなり武名高い人で、フビライ南宋方面の司令官だった頃から右翼軍を率いて雲南に入って南へ攻め込んでいました。フビライが更迭され、司令官がモンケに代わると、モンケの本軍に組み入れられ、右翼軍の最右翼軍として、引き続き南下し、ベトナムに入ってハノイを陥落させています。そこから北上して南宋を攻め、鄂州でタガチャルの軍に合流する予定でしたが、最南端の前線にいたことで、モンケが陣没してカラコルムに引きかえす本軍に置いて行かれてしまい、敵中に孤立しそうになっていたんです。しかし、フビライの軍が鄂州に残ったことで、無事味方と合流することができました。元々フビライの部下だったうえにこんなことになったら、もう一生フビライについていきたくなるでしょうね。
 タガチャルは、自身がオッチギン家の当主で、ジョチ・カザル家、カチウン家の軍を率いていました。なので、タガチャルがフビライに着いたと見ると、他の多くの軍団もフビライ支持を決めました。
 こうして、フビライは中国北部の支配を固めつつ、強力な味方を多く得ることができたのです。

 ここで、ドロン・ノールにいるフビライの奥さん、チャブイから、ドロン・ノールにいるあのアラムダールと、燕京(北京)にいるドルジが民兵を徴集しているという連絡が入ります。それを聞いたフビライは、ようやくドロン・ノールへ戻り、1260年にドロン・ノールでカンへの即位を宣言します。この時、ドロン・ノールで独自にクリルタイを開いたという説もあります。
 するとアリクブケも、カラコルムクリルタイを開いて、ハン即位を宣言します。おそらくお互いに自陣営にいる有力者の承認を得ての即位宣言だったんだと思いますが、各長老を招いてカラコルムクリルタイを開く、という正統な手続きを踏んだアリクブケの方が、イェケ・モンゴル・ウルスのハンとしての正統性は強かったようです。

 この時、アリクブケの手元にある兵力はモンゴル高原を守る留守居部隊だけで、モンゴル兵の多くはフレグと共に西方へ遠征していたり、南宋攻略に出ていたりでほとんど出払っていました。一方、フビライは先述の通り散り散りになっていた南宋遠征軍のほとんどを吸収していました。さらに、フビライは豊かな自領からモンゴル高原への物資の持ち出しを差し止め、アリクブケを経済的に圧迫してゆきます。

 アリクブケの即位宣言を受けて、フビライカラコルムへ侵攻しました。アリクブケはカラコルムを棄てて一旦西へ逃げ、全軍をかき集めて兵力を補強し、1261年に改めてフビライを攻めます。ですが、フビライは東方三王家を味方に付けていました。元々、フビライの軍はイェケ・モンゴル・ウルスの正統に対する反逆者に近い立場なので、将兵には「フビライに味方する=この戦いに敗けたら自分の未来がない}という気持ちがあり、戦意が高かったんです。そこに持ってきて、華北からの豊富な物資と三王家の兵力支援があれば、負ける要素が見つかりません。
 この再戦にも負けたアリクブケは、自軍にいたチャガタイ家のアレグを使者として、チャガタイ家に補給支援を求めます。チャガタイ家のウルスは、トルファンから現在のタジキスタンキルギスタンのあたりまで、アルタイ山脈やバルハシ湖と崑崙山脈に挟まれたあたりにありました。
 ところが、チャガタイ・ウルスに入るとアレグは当主のオルガナから実権を奪い、アリクブケに反旗を翻します。おかげでアリクブケは、東西から挟撃される形になってしまいました。アリクブケはチャガタイ・ウルスを攻め、イリ盆地を占拠。そこからの物資に期待しますが、アレグは捕虜にしたチャガタイ家の人々を殺害してしまいます。他民族には無慈悲なモンゴル人ですが、部族氏族で移動する遊牧民は同胞の紐帯初が強く、同胞殺しをしてしまったアレグは求心力を失います。そのため、多くの将校が投降して、フビライの陣営に走りました。
 加えて、1263年にイリ盆地で飢饉がおこってしまいます。どうにもならなくなったアリクブケは翌年フビライに降伏しました。

 しかし、オゴタイ家やチャガタイ家はフビライイェケ・モンゴル・ウルスのハンとなることを認めず、オゴタイ家のハイドゥを中心としてフビライと争い続けます。
 既に独立を宣言していたキプチャクハン国ことジョチ・ウルスイルハン国ことフレグ・ウルスに、親フビライ派と反フビライ派で東西分裂したモグリスターンハン国ことチャガタイ・ウルス、同じくフビライ派とハイドゥ派で東西分裂してししまい、最早オゴタイハン国ともオゴタイ・ウルスとも呼べなくなったハイドゥ・ウルス。これらに東方三王家までがフビライに反発し、身内相手の戦いはフビライが死ぬまで続きます。


 さてここで問題です。モンゴル帝国イェケ・モンゴル・ウルスだとすると、フビライモンゴル帝国の皇帝なのでしょうか?

 1271年にフビライは自領に『元』という中華風の国号を定めます。支配しているのがほとんど中華領域なんですから、このこと自体は不思議ではないのですが、さて、『元』はモンゴル帝国なのでしょうか?それとも、中華帝国なのでしょうか?
 日本に攻めてきたのは、一体どこなんでしょう?

モンゴル高原


というところで、なかなか本題に入れませんが、きりがいいので今回はここまで。

 

余談ですが、

ツイッター(現X)で「モンゴル皇帝時報BOT」なるものがあって、

「ハチジ ハーン」

「クジ ハーン」

とか たまに

「アサゴ ハーン」

「チュウシャイ ハーン」

とか呟くのがあったんですが、今でもあるのかなあ?