日本の隅っこの歴史

某所で郷土史をやっていた方が集めた膨大な資料(主に紙)をデジタル化する作業のため、紐解いた内容に少々個人的な感想を交えて書いていく、覚書的な性質の濃いブログです。 手当たり次第に作業していくため、場所や時系列などはバラバラです。ある程度溜まったら整理してまとめようと思っています。

保元の乱と平治の乱 おさらい

 筑前秋月家 その2でちらっと書いた、源平合戦こと治承寿永の乱をおさらいしようとしたんですが、なにしろ知識が中学レベルの素人なもので、ここからおさらいしないと理解できませんでした。
 なので、保元の乱からはじめます。


 承平天慶の乱で、平将門と対立した将門の従兄弟、平貞盛承平天慶の乱 おさらい参照)は、北山の決戦で平将門を討ち取り、従五位上に叙せられ、その後も出世を重ねます。貞盛の息子たちもそれぞれに地歩を固め、四男維衡(これひら)は伊勢国に地盤を築き、藤原道長の元で『道長四天王』と呼ばれるまでになります。以後、平維衡の子孫たちは『伊勢平氏』とよばれることとなりました。
 維衡から100年ほど経った頃、伊勢平氏の嫡男として平清盛が誕生します。


 この頃の歴史でわかりづらいのは、何と言っても天皇以外に出てくる上皇だの法皇だのです。『院政』というのはわかるのですが、何故上皇になって天皇を別に立てるのか、それがどうして摂関政治を排することになるのか、中学レベルだとさっぱりわかりませんし、高校の歴史教科書を見ても、実にさらっとしか書かれていないんですよね。

 高校の教科書にも書かれていますが、発端は荘園整理令で有名な後三条天皇の即位です。
 第60代天皇醍醐天皇から後三条天皇の先代の後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)まで、実に10代に渡ってお母さんが藤原家の天皇が続いています。特に、後冷泉天皇と、その前の後朱雀天皇、更にその前の後一条天皇までお母さんは藤原道長の娘です。このように、天皇に娘を嫁がせて孫を天皇にし、皇太子位に自分の孫をつけて次の天皇も自分たちの血族にする、というかたちで権力基盤を築いていたのが藤原摂関政治です。
 ただ、後冷泉天皇重篤な状態に陥った時、藤原頼通(ふじわらのよりみち)の娘である皇后藤原寛子(ふじわらのかんし)に子どもはなく、頼通の弟、藤原教通(ふじわらののりみち)の娘である藤原歓子(ふじわらのかんし)を皇后にしてようやく男児が産まれますが、その日のうちに亡くなっています。結局、後冷泉天皇には男児がないまま薨去されてしまいました。ですので、おそらく道長・頼通父子としては、空位のままではいけないので仕方なく冊立した皇太子であっただろう後三条天皇が、1068年(治暦4年)に天皇に即位してしまったというわけです。多分、男の孫が産まれたらなんだかんだ理由をつけて廃嫡させるつもりだったんでしょうね。

 そういう経緯なので、後三条天皇は藤原摂関家バチバチに対立していたわけではありません。実際、関白には藤原教通をおいています。ただ、むしろ周囲の摂関家反対派などが「主上と大した血縁もないくせにのさばるなよ」と言う雰囲気になったため、人事や政策は様々な立場の人にバランスよく配慮したものになったようなのです。その結果が、"延久の善政"となったのでしょう。

 後三条天皇の後任は息子の白河天皇となりました。1073年(延久4年)に20歳で譲位されているので、後三条天皇上皇となりましたが、まあ、御意見番程度で、白河天皇はしっかり天皇親政をしていました。ただ、お父さんと違うのは、藤原教通や頼通の子の師実(もろざね)を関白としつつも、摂関家の力をあからさまに削ぎにかかったことです。身内での対立などもあり、摂関家は徐々に弱体化していきます。
 そんな中の、1087年(応徳3年)白河天皇はわずか8才の実子である堀河天皇に譲位して自らは上皇となり、幼帝を後見するために院庁を設けて自ら政務を行います。ただ、白河天皇にしろ堀川天皇にしろ、母親は藤原摂関家の娘で、堀川天皇の外祖父である藤原師実は、成人して父親の口出しに反発心を感じている堀河天皇と、上皇の影響下から逃れようとしていた時もありました。が、その藤原師実が亡くなり、相次いで堀河天皇も若くして亡くなってしまいます。すると白河上皇堀河天皇の息子の鳥羽天皇を即位させます。
 1107年(嘉承2年)の即維時、鳥羽天皇は5才。当然、政治などできません。摂政になった藤原師通(ふじわらのもろみち)の息子、忠実(ただざね)も22才と頼りない年齢だったため、権力は白河上皇に一点集中し、院政が実現しました。
 なにしろ上皇天皇の父親なわけですから、天皇の母方の祖父一族が政治を牛耳る藤原摂関政治よりも強権で独裁的です。おまけに、もしも天皇に正嫡の男子が出来なかったり、夭折してしまったりした場合でも、天皇家の中から自分に都合のいい人物を後継指名できるので、権力の継続性も強かったはずでした。
 ちなみに、法皇とは出家した上皇です。これまでは、出家をすると俗世とは離れるので、出家をすることが権勢から身を引く決意の表れとされたのですが、白河上皇以降は出家したって政界から引退しませんでしたから、出家した貴族も無害とは見なされなくなりました、このため、あとで出てくる崇徳上皇が、出家して降参姿勢を見せているのに誰も匿ってくれないという悲惨な状況に見舞われることになります。

 1123年(保安4年)に白河上皇は16才になった鳥羽天皇を排して3才の崇徳天皇皇位につけます。6年後にその白河上皇が亡くなると、鳥羽上皇院政を敷き、崇徳天皇が23才になったところで退位させ、3才の近衛天皇を即位させます。ところが近衛天皇は17才で亡くなってしまいます。
 鳥羽上皇が次の天皇に望んだのは、当時自分の手元に引き取って育てていた二条天皇でしたが、幼少の二条天皇の実父は当然まだ存命のため、父親を飛び越えて即位するわけにはいきません。そこで、1127年(大治2年)父親の後白河天皇が中継ぎとして即位しました。
 この時後白河天皇は29才。先々代の崇徳上皇とは同母弟です。彼の即位によって、崇徳上皇は権力への道を完全に断たれました。
 鳥羽上皇としては、父親の白河上皇がよっぽど嫌だったんでしょうね。一天万乗の天皇になっても父親に押さえつけられ続け、その地位さえ勝手に下ろされて死ぬまで好き勝手されるんですから。崇徳上皇も、我が子でありながら『親父のお気に入り』として嫌がられてしまったように思えます。院政がこういう体制である以上、スパイラル的にこういういがみ合いがおこってきます。

 さて、こうなると白河上皇崇徳上皇と仕えて権力を有していた人々は権力中枢から外され、それまで閑職で無聊をかこっていた人々が鳥羽上皇後白河天皇にすり寄って権勢をふるうようになってきます。
 ことに鳥羽院の頃からは、院や院近臣に荘園が寄進されるようになり、院は直轄領である院分国を所有し、有力貴族の荘園は知行国とされて、不輸・不入権によってほぼ私有地と化したので、院とその周辺の人々はかなり豊かでした。
 対して、その豊かさのおこぼれにあずかれない貴族たちは、滅茶苦茶悲惨でした。宮仕えに対する俸禄のシステムが崩壊していたので、領地がなければ収入がない、って事態に陥っていたんです。しかも、収益のいい土地は全部院周辺の人々のものになっちゃっています。「貧しいっていっても貴族レベルでの話でしょう?」と思いがちですが、本当に悲惨だったようです。
 教科書なんかだと、「待賢門院派」「美福門院派」と書かれますが、待賢門院派は白河上皇崇徳天皇の味方、美福門院派は鳥羽上皇後白河天皇の味方です。待賢門院は、崇徳上皇のお母さん、藤原璋子の院号で、美福門院は近衛天皇のお母さんで二条天皇の養母、藤原得子の院号です。どっちもお父さんは鳥羽上皇ですからね。

 で、1155年(久寿2年)に後白河天皇が即位し、翌年の1156年(保元元年)に鳥羽上皇が病の床につきますが、この時、北面武士(ほくめんのぶし)の中には、平清盛源為義(みなもとのためよし)・源義朝(みなもとのよしとも)父子の名があります。
 北面武士とは、院御所の北側の部屋に詰めている近衛武士のことで、創設者は白河上皇です。平清盛のお祖父さんが、白河上皇に伊賀の荘園を寄進して取り立てられ、以後、忠盛、清盛と3代に渡って北面武士に名を連ねています。源為義は、父親が誰かが定かではないのですが、伯父か兄かにあたる源義忠(みなもとのよしただ)が暗殺された時に犯人逮捕の功を揚げて、14才で左衛門少尉に任じられます。この頃から白河上皇に取り立てられ、北面武士として平忠盛とちょくちょく同じ現場で仕事をしています。ただ、本人も周囲もなんだかいろいろやらかすので、一時は職を罷免されたりもして、長男の義朝との仲も険悪になっています。官職も、忠盛・清盛が各地の受領になっているのに対し、為義は前年に八男の不祥事の責任を問われてクビになっていました。

平忠盛(菊池容斉 画)

 病を得たその年のうちに、鳥羽上皇が亡くなります。崇徳上皇は死に瀕した父親の元に駆けつけたのですが、会わせてもらえませんでした。そして崩御後、初七日も迎えないうちにある噂がたちます。曰く、『崇徳上皇悪左府こと藤原頼長が結託して兵をおこし、国家転覆を企んでいる』と。
 事実だけを並べると、「後白河天皇、謀ったな」と思えますが、どうなんでしょう?

 それからは噂に操られる形で崇徳上皇と頼長は軍事行動を起こすことになります。
 平忠盛・清盛は、この頃までに親子して功績を重ね、北面武士の中では最大の武力を有するまでになっていました。祖父の平正盛(たいらのまさもり)は白河上皇に取り立てられていたのだし、3年前に亡くなった父の忠盛は崇徳天皇の歌仲間で第一皇子の後見人であり、継母の池禅尼も第一皇子の乳母なので、崇徳上皇は清盛が味方に付いてくれると思っていたようです。そこに望みをかけて、平氏の本拠地である六波羅に近い白河に立てこもったのでしょうが、参集した武士団の中に平清盛はいませんでした。
 崇徳上皇方の主力となったのは、官職を外されてこの戦いに再起をかけた源為義でしたが、長男の義朝(よしとも)は奥さんの実家の伝手で鳥羽上皇についていたので、父子で戦うことになってしまいました。平家の方でも、清盛の叔父の平忠正(たいらのただまさ)は崇徳上皇が産まれた時からの馬番で、鳥羽上皇の代になってからは官職をはずされていましたので、崇徳上皇側で参戦することになります。

 結果は御存知の通りで、崇徳上皇は讃岐へ配流、平忠正は清盛に処刑され、源為義は義朝に処刑されます。これが、保元の乱です。


 保元の乱後、平清盛とその兄弟たちは四国・中国・近畿の豊かな国の受領となり、また、清盛が大宰大弐になって日宋貿易に介入したりして、その軍事・経済力はますます強大化していました。
 後白河天皇は、崇徳上皇派の貴族の荘園を没収し、改めて荘園の整理と寺社勢力の統制を行います。ここで力を振るったのが信西(しんぜい)こと藤原通憲(ふじわらのみちのり)です。元々、後白河天皇鳥羽上皇中宮との息子ではあるものの、四男だし皇位を継ぐことはないだろうと思って、呑気に遊び暮らしていました。おそらく、後見人だった信西もそう思っていたでしょうが、晴天の霹靂で皇位が転がり込んできたので、今様is我が人生の後白河天皇はともかく、信西的には確変とか、アタックチャンスとかがきた感じです。親族を要職に就けたり、荘園整理の名のもとに接収した藤原頼長の荘園を自分の管理下においたりなど、せっせと政治経済的地盤を固めてゆきました。
 ですが、そのアタックチャンス二条天皇が成長するまでの中継ぎとして得たものなので、すぐに二条天皇の養母、美福門院からせっつかれ始めます。美福門院は、鳥羽上皇から愛されまくっていましたので、荘園もたっぷり持っています。つまり、下手に逆らえない相手です。二条天皇が大きくなったら譲位するというのは、最初からの約束ですからしかたありません。しかし、突然天皇になった後白河天皇には、院政を敷いて権力を振るうだけの地盤を作るには、時間がなさすぎました。信西は、元々は鳥羽上皇に仕えていたため美福門院とも深いかかわりがあるので、そこまで焦らなかったかもしれませんが、後白河天皇としては、彼すら腹心として頭から信用できる存在ではない、ということになってしまします。
 そこで、後白河天皇藤原信頼(ふじわらののぶより)を三段跳び以上のペースで出世させ、自らの側近にしました。信頼は、武蔵守から武蔵国主となった人物なので、東国に下向して地元豪族を組織していた源義朝と縁があり、義朝経由で関東の武士たちを動かすことができたのです。
 まあ、信頼、イケメンだったんでしょうね。もしくは可愛い系かも。とにかく、後白河天皇のストライクゾーンを討ちぬいたとかなんとか…

 

 1158年(保元3年)、後白河天皇二条天皇に譲位し、後白河院となります。そうなると、後白河院派と二条天皇派に分かれていがみ合いが始まり、権力はふるうものの立場的にどっちつかずな信西はどちら派にも敵を抱えるようになります。
 そして、藤原信頼信西、双方の息子の舅であり、絶大な武力を背景に不気味な中立を保っている、平清盛がいました。
 
 たまりかねた藤原信頼は御所を襲撃し、信西を抹殺しようと計画します。実行役の武士の中にちらほら美福門院の縁者もいますし、何より検非違使がスルーしていますので、この計画は二条天皇派も賛同していたものと思われます。ただ、清盛は清盛だけにどう動くかが不明でした。ですので、年末の清盛が熊野詣に出かけている隙に事を行うことにします。
 平治元年12月9日。ユリウス暦なら年が明けた1160年1月19日。藤原信頼らは武力蜂起します。後白河上皇二条天皇の身柄を確保し、三条殿を焼き払いました。5日間かけて信頼は政権をとりあえず掌握、信西は自害、信西の息子たちは全員配流。そしてあらたに除目を行い、源義朝は播磨守、やっと出てきた嫡子の頼朝は右兵衛権佐になりました。この時の播磨守、清盛なんですけどね…

 熊野へ向かう途中でこの知らせを受けた清盛は、その時いた紀伊の武士団の協力を取り付け、途中で伊賀などの郎党とも合流して京に戻りました。信頼はクーデタ―を起こしたわけですから、源義朝としては、あくまで秘密裏に準備を進めねばならず、自らの武力である東国の武士たちもごく少人数しか京に呼び込んでいません。
 それに、清盛の留守ならば、京に軍事的空白ができると思ってこの日に決行したわけで、その空白を埋め戻されてしまえば、元より勝ち目は薄いのです。義朝は、京を制圧してすぐに清盛追討の兵を出そうと主張したそうですが、信頼は、自分が上皇天皇も確保しているとわかったら、清盛は自分に着いてくれると思っていたらしいです。

 さて、二条天皇派は、信西一派を討ち取ったところで「あー。もう信頼、用なしだな」と思っていました。そこへ、クーデターを知って怒った清盛が兵を率いて六波羅に帰って来たと知り、さっさと次の行動へ移ります。二条天皇を清盛のもとへ脱出させたのです。一応、それに先立って後白河上皇にも「二条天皇脱出するよ」と教えてあげたので、後白河上皇仁和寺へ脱出しました。

 天皇が味方についたのですから、清盛は一転、官軍になりました。哀れなのは後白河上皇に逃げられてしまった上皇派の皆さんです。信頼や義朝は清盛を迎え撃ちますが、逃亡する人もいたようです。この戦いが、平治の乱です。

 戦いは清盛の勝利に終わり、藤原信頼は処刑。源義朝は逃亡中に殺害され、頼朝も逃亡中に捕縛されますが、池禅尼の嘆願で助命されました。
 この戦いで、結局天皇派、上皇派ともに弱体化し、平家一門の知行国は増加。国家的な軍事・警察権も平氏のものとのなり、清盛をはじめとして一族の者から公卿を輩出するようになって、朝廷の政治にも介入できるようになりました。

 

 今回は、こんなところで終わります。スターつけてくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。