日本の隅っこの歴史

某所で郷土史をやっていた方が集めた膨大な資料(主に紙)をデジタル化する作業のため、紐解いた内容に少々個人的な感想を交えて書いていく、覚書的な性質の濃いブログです。 手当たり次第に作業していくため、場所や時系列などはバラバラです。ある程度溜まったら整理してまとめようと思っています。

刀伊の入寇 おさらい

 今回は、刀伊の入寇をおさらいします。
 これって意外にタイムリーなお話なんですね。私、大河ドラマは見ないのですが、そういえば同じ時期のお話ですね。
 
 さて、参ります。


 「刀伊」とは、高麗の人々が彼らを指して呼んでいた「トイ」という音に漢字をあてたもので、その正体は女真族だといわれています。

 女真族は後の満州族で、現在の中国黒竜江省とロシアのアムールを合わせたあたりに住んでいた、ツングース系の民族です。現在は居住地によって中国語を話しますが、元はツングース語系の女真語を本来は話していたようで、文字は、1019年当時はわかりませんが、1119年以降は女真文字を使い、その後満州語を話すようになって、明代以降は満州文字を使っています。中国の紫禁城には、扁額に漢字と満州文字が並べて書いてあります。清は、女真族が統治した中国統一王朝です。

順貞門の扁額(右に書いてあるのが満州文字です)

 11世紀初めの中国は、五代十国時代の混乱をようやく抜け出して、宗が統一を果たしたところでした。が、その範囲は現在の中華人民共和国よりも大分狭く、天津から北の現在の北京市山西省河北省の北部は遼、寧夏回族自治区とその周辺が西夏チベットあたりは吐蕃でした。
 その中国東北部では、7世紀に高句麗が滅んだ後に、ツングース系部族の粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)に高句麗の遺民を加えた人々が建国した、渤海国という国がありました。だいたい7世紀も末も末の698年から、10世紀初めの926年までのことです。女真族は、同じツングース系の国家である渤海国を経由して他国と交易をしながら半農半猟でくらしていたようです。
 渤海国は、唐に朝貢して冊封されることで安定した勢力を確保していたのですが、その唐が滅び五代十国時代になると、内モンゴルからモンゴル系のキタイ人やヤリュート人が侵攻してきて、現在のモンゴル共和国からロシア沿岸部までに及ぶ大国、遼を建国しました。女真族は、11世紀初めに居住域を朝鮮半島の北からロシア沿岸部にまで広げていたので、モンゴル系民族の侵攻に圧迫されるように、散り散りになってその居住域を広げていったのかも知れません。
 そして、渤海国の消滅によって女真族の交易ルートは縮小を余儀なくされました。その後、一部の女真族が海から高麗の沿岸を襲撃し始めて、半島の人々から「東夷(トイ)」と呼ばれるようになったので、この海賊化は縮小された交易ルートの回復を目論んだものとも受け取れます。

 何しろ当の女真族も高麗国も記録を残していないので、女真族の事情は今のところよくわかっていません。ともかく、朝鮮半島を襲っていた女真族の一団が朝鮮沿岸を南下して対馬を襲ったのは確かなようです。


 日本は当時、朝鮮半島の海賊にしばしば沿岸部を襲われていたので、最初に刀伊に襲われた対馬壱岐の人々は、今回も半島の賊だろうと思っていたようです。九州、山口の沿岸部では半島の賊による被害も結構酷かったようですが、何しろ「平安時代最大の危機」ともいわれる刀伊の入寇ですら知らないまま終わってしまった朝廷です。この後しばらくして、その制度のまずさが露呈してくるのですが、摂関政治は宮廷策謀ばかりで、外的な社会の変動に対して能動的に対応することができませんでした。

 1019年(寛仁3年)3月27日。船50隻、兵数3000人の大集団が対馬に来襲し、放火・略奪等を行います。島民36人が殺害され、女性、子どもを含む346人が連れ去られます。家は焼き払われ、田畑は荒らされ、家畜は食べられたそうです。厳原にあった対馬銀山も焼き払われています。攻め込まれた次の日には大宰府に向けて賊の来襲を知らせる公文書を発しますが、これが大宰府に届いたのは翌月の7日でした。
 同じ日に壱岐の島分寺の講師、常覚も太宰府に着いています。そして、賊が対馬を襲った後に壱岐を襲い、応戦した壱岐守藤原理忠(ふじわらのまさただ)をはじめとする兵147名が玉砕。その後、賊が島分寺を焼こうとしたので、常覚率いる寺の僧侶に加え、島民も参加して抵抗。三度まで賊を撃退したものの賊の侵攻は止まらず、自分が抜け出して太宰府に知らせに来たと告げます。
 この時、賊の船は既に筑前の海にまでやって来ていました。怡土郡、志摩郡、早良郡が襲われ、ここでも拉致、略奪、虐殺、放火を行っています。怡土や志摩の住人たちは、戦う中で数人の賊を捕らえ、捕虜としました。捕虜になったのはいずれも高麗人でしたが、彼等の証言で賊は「トイ」と呼ばれ、朝鮮半島人々ではないということがわかります。
 この時の様子を太宰府へ伝える文書によると、刀伊たちが乗っていた船は、大型のものはおそらく船首から船尾までが約22メートルで兵60人ほどが乗り、小型のものが約13メートルで兵30人ほどが乗っていたそうです。櫂が1隻あたり40本くらいあったと言いますから、かなりしっかりした軍船だったことが窺えます。
 早良の沖に浮かぶ能古島に陣を築いた刀伊軍は、9日、博多の警固所へ攻撃を仕掛けますが、兵士たちの反撃にあって撃退され、その後筥崎宮を焼き払おうとしますが、大蔵種材(おおくらたねき)によってこれも阻止され、能古島に退きます。
 警固所は、鴻臚館の警備のため、博多の防衛拠点として作られた施設です。鴻臚館は、後に福岡城が建てられた場所にあったので、この頃は海辺でした。

能古島(福岡観光Webより)

 刀伊軍が能古島に引っ込んだ後、二日ほど強風が吹いて船が出せる状態ではありませんでした。この隙に、太宰府はなんとか兵船を38隻確保します。
 ようやく風がおさまった12日の未明に能古島を出た刀伊は、志摩郡の船越に向かい、既に待ち構えていた志摩の兵と激しい戦闘になります。加えて海からも兵船に乗った、少弐平致行(たいらのむねゆき)・前大監大蔵種材・大宰大監藤原致孝(ふじわらのむねたか)らが襲いかかり、刀伊軍は西へと逃げます。
 ここで、前に書いた記事(筑前秋月氏 その1)で出てきたあのシーンになるようです。『秋月家譜』だと30隻の船が揃う前に大蔵種材おじい様が啖呵きったように受け取れてしまうんですけど、一旦兵船38隻で撃退した後、さらに船を多く揃えてから追撃すべきだという人々に対して、「船が揃うのを待っていたら機を逃してしまう。儂は一人ででも行く!」と言ったようです。先日新しく頂いた『物語秋月史』によると、皆、種材の言葉に突き動かされてついて行ったのですが、博多湾内に既に賊はいなかった、と書かれています。

 

 博多湾を出た刀伊の賊が向かった先は肥前国松浦で、13日にはそこでまた略奪などを行いますが、前肥前介で松浦党の祖、源知(みなもとのしるす)が反撃し、対馬まで追い立てて大陸へと帰らせました。
 『物語秋月史』によれば、日本を襲撃した刀伊の一団は、追い立てられるままに朝鮮半島東岸を北上していたところ、元山(ウォンサン)沖で待ち構えていた高麗の水軍に補足され、全滅したということです。

 

 刀伊によって1200人を超える日本人が拉致されているのですが、その中に、対馬の判官だった長岑諸近(ながみねもろちか)がいます。
 彼は、最初の対馬襲撃で家族と共に刀伊の船に囚われ、そのまま、壱岐筑前肥前へ連れまわされ、帰路で再び対馬に立ち寄った時に船から脱走したそうです。その後しばらく対馬に留まっていましたが、連れ去られた家族を奪還するべく海を渡り、釜山郊外の金海(キムヘ)で高麗政府に保護された日本人女性と会うことができたそうです。
 彼の家族で生き残ったのは、彼の伯母だけだったようですが、諸近は生き残っていた女性10名をつれて日本に帰国しています。
 ただ、当時は「渡海制」といって、遣唐使遣渤海使など、朝廷の認可を受けた者以外の海外への渡航が禁止されていました。諸近はその禁を破ったという咎で、禁錮刑にされてしまいました。

 長岑諸近達とは別に、男女259人が刀伊軍を殲滅した高麗軍に救助され、公式に日本に送り届けられてもいます。

 

  さて、4月7日に対馬からの知らせを受け、壱岐島分寺の常覚の訪問を受けたのは、竜星涼さん、ではなく大宰権師藤原隆家(ふじわらのたかいえ)です。隆家はこの頃失明寸前だったともいわれていますが、しっかり務めは果たしていました。京都へも、壱岐対馬から知らせを受けた7日と翌8日、刀伊を追い払った後の16日と、その後も随時京都に進捗を送っています。
 ただ、7日、8日に出した使者が京都に着いたのは17日でした。
 朝廷では18日に「陣定(じんのさだめ)」という会議を開いて、「九州の警固はもちろん、山陰、山陽や南海、北陸の主要道の警固もしよう」「軍功のあるものには大宰府でちゃんと褒美をさせよう」と決めたのはいいんですが、「急報は天皇に対する奏上の形で行うべきなのに、太政官への報告書になっているのはけしからん。そのことも返書に書き添えろ」とか、「返事の書状を持たせる使者に馬寮の馬を使わせてよいのか。規則ではどうなってる?前例はあるのか?」とか、外敵に侵攻されているというのにまるで緊急性のないところにこだわって時間を使ってしまっています。
 どうにかこうにかこの時の勅使は送り出したようなんですが、その時戦闘は既に終わっていたということを、数日後に朝廷は知ることになります。すると朝廷は、「なんだ。もう終わってたの」とばかりに一気にやる気がなくなり、「論功行賞与えなさいって勅符は18日付で出したけど、その時戦闘は終わってたじゃん。褒賞を約束した後にあげた戦功じゃないなら、無効でしょ」と、言い出す人が出てきます。現地は甚大な被害を受けてこれから復興しなければならないというのに、すごい温度差です。
 さすがに、「約束の前後は問題じゃない。功があるなら褒美は出すべき」ということになり、行賞はされました。さすがにね。

 

 刀伊の入寇についてはこんなところです。できるだけ時系列で整理しようとしてるんですが、難しいですねえ。。。次回もがんばります。

 

◆参考資料
 三浦未雄著 「物語秋月史 上巻」(デジタル化するためにばらすのが忍びないので、しばらく書籍のまま保管)
 村井章介著 「一〇一九年の女真海賊と高麗・日本