日本の隅っこの歴史

某所で郷土史をやっていた方が集めた膨大な資料(主に紙)をデジタル化する作業のため、紐解いた内容に少々個人的な感想を交えて書いていく、覚書的な性質の濃いブログです。 手当たり次第に作業していくため、場所や時系列などはバラバラです。ある程度溜まったら整理してまとめようと思っています。

承平天慶の乱 おさらい

 前回まで、秋月家に関する歴史を4回にわたってやって来ました。その中で節目となった出来事とその背景を、今回からいくつかおさらいしようと思います。
 まずは、秋月家のご先祖、大蔵春実が秋月にやってくるきっかけとなった、承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)から始めます。


 承平天慶の乱は、「平将門の乱」「藤原純友の乱」と分けて呼ばれることもあります。全く別の土地で、全く別のことをきっかけとして始まった反乱なので、分けて呼ぶのが妥当かも知れませんが、この二つの内乱がほぼ同時期に起こったことで武士の台頭が始まり、貴族政治が揺らぎ始めることになります。
 将門と純友が示し合わせて反乱を起こしたわけではないようですが、この両方の反乱の共通点として、当時の律令制に限界が訪れていたという社会背景が共通点としてあるのは確かなようです。

 ご存知の通り、律令制は唐の制度を参考として作られました。統一国家「秦」以来、試行錯誤を繰り返して確立された中国の律令制の基本は、「班給」「課税」「徴兵」で、それを運用するための地方統治システムが確立されていました。

 「班給」は、個人に対して国が耕地を割り当てるものです。唐における均田制では、毎年各戸から出される現況申告書に基づいて、労働人口一人当たりに口分田と永業田の収受(労働できるまでに育った人に口分田を割り当て、亡くなったり老齢などにより労働できなくなったりした人の口分田を返納させる)を行い、税の徴収額を算出し予算を立てます。ちなみに、中国では戸籍調査は三年に一回行われます。口分田はその人限りしか使えませんが、永業田はある程度その世帯で世襲できます。
 これに対し日本の班田収授法では、6年に1回の戸籍調査の際に、一世帯の人数調査と土地の割り当てが行われていて、その手続きが物凄く煩雑でした。何と言うか、男女それぞれ(ただし働ける人に限る)に割り当てる耕地の広さは決めているのに、一世帯に居住している人数と割り当てられている耕作面積をばらばらに管理していて、それぞれを管轄している役所に届け出を出して、お互いの役所が付き合わせをして認められなければ耕地が貰えない。みたいな手続きになっているんです。
 …………「お役所仕事」って、やつですかねえ。

 班田収授は、あまりの面倒臭さも手伝って平安時代の初期にはほとんど行われなくなっており、689年の飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)で制定された班田収授法はわずか30年ほどで崩壊してしまいます。唐の均田制も崩壊します。こちらは、開始時期をどこに定めるのかが難しいですが、均田制の確立を隋にみるとすれば、だいたい80年くらいは形骸化しつつも持ちこたえたことになります。
 唐の場合も日本の場合も、土地と人とを国が管理しきれなくなったことが、制度崩壊の原因のようです。どちらの場合も、労役の負担に耐えかねた農民が土地を離れて逃亡し、その逃亡農民を大土地所有者が小作人として受け入れたことで、人と土地と税徴収額が計算通りにはいかなくなってきました。この背景には、中国の場合は武則天が土地売買の制限を緩めたこと、日本の場合は、墾田永年私財法の施行による荘園の発生があります。
 
 「課税」は、耕地を支給する対価として祖庸調を納めるというものです。日本と中国で、祖・庸・調の内容は微妙に異なりますが、仕組みとしての大きな違いは、祖(穀物)の取り立て額の算出が、中国の場合は労働力ベースなのに大して、日本の場合は耕地面積ベースなことです。
 祖庸調の他に、兵役も課されます。建前としては、成人男子に一律に課されることになっていますが、両国とも平等に、とはいかなかったようです。日本の場合は、白村江の戦いあたりから東国の人々を防人として九州防衛に当たらせていたので中部関東地方の人々に大きな負担がかかっていました。

 これらの税の徴収や地方の統治をおこなう国郡里制(こくぐんりせい)についても、ちょっとだけおさらいをしておきます。

 国郡里制では、地方行政の最小単位を「里」とし、50戸でひとつの里を構成して里長をたてていました。「戸」は戸籍の記載単位でいわゆる世帯ですが、当時は一戸に平均20人いたそうです。
 当時の庶民の住居って、竪穴式住居ですよ?小さい子も含んでいたんでしょうけど、物理的に一軒にそんな人数入るんでしょうか?それとも、一戸で一軒ではなかったとか?『貧窮問答歌』を思い出しました。確かに、すごいすし詰め状態で寝ていた雰囲気はあります…けど……。
 「里」は、その上位に「郷」を置かれ、2~3里を統括していましたが、740年に「里」が廃止され、最小単位は「郷」になったようです。

 「里」あるいは「郷」の上位が「郡」で、郡は1000戸を上限として、2里~20里までを統括していました。この「郡」を当地していたのが郡司で、地場の豪族がその任にあたっていました。仕事は、最初のうちは徴税と、徴収した物の保管と運用、管轄地内の班田収受なども任されていましたが、後にあとから述べる国司の権限を強めて郡司の仕事を削り、税の徴収と簡単な裁判程度になったようです。
 郡司は、律令制度における官職ではなく、大化の改新以前の国造(くにのみやつこ)に、彼等の勢力範囲での住民の統括を任せたようなものでした。しかし、その「郡」が地方行政の一単位となってしまうと、中央政権の都合によって、統合、分割、再編などが行われてしまいます。そうなると、地方豪族である彼らの勢力範囲が分断されたり、もともと彼らの勢力外のところの面倒をみなくければならなくなったりするわけで、やりにくいだろうことは容易に想像できる状態になってしまいます。

 「郡」の上の単位が「国」です。大きい国(国力的に)だと14郡程度、小さい国だと3郡くらいで一国になっていました。
 ここに中央から派遣されるのが国司で、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官がおり、その下に史生(しせい)というヒラ国司や、博士、医師などのブレーンがいたようです。役職付の人は、小さい国では介がいなかったり守と目だけだったりしたようです。
 国司には本来6年の任期がありますがあまり守られず、途中交代が多かったみたいです。国司は赴任した土地の行政・司法・祭祀を担っていましたし、国ごとに軍隊が組織されていて、その統率権も国司にありました。
 最初は四等官の共同責任で運営されていましたが、平安時代に「守」の権限が強化され、徴税率を自由に決められるようになりました。まあそうなれば、悪い奴は都への申告額より多めに税を巻き上げて、差分を自分のポケットにinしますよね。
 国司を指す言葉でちょくちょく「受領」というのが出てきますが、これは現地で任にあたる国司のトップを指します。『現地で』とわざわざつけたのは、安定して税を取り立てる仕組みを確立してしまうと、赴任地に行かない国司が出てきたからです。そういうのを遥任っていいます。大宰府の大宰権師とか大宰大弐とか、太宰府にいないのが普通だったそうです。平清盛大宰大弐ですけど、九州にいたはずがないですものね。


 前置きが長くなりましたが、そんな背景から承平天慶の乱は始まります。

 

大手町の将門塚


 平将門は、下総国の佐倉に所領を持つ鎮守府将軍平良将(たいらのよしまさ)の子で15才くらいで平安京に行き、検非違使になろうと思っていたようです。しかし、当時は京でも地方でも官職がほぼ世襲されてるようになっていたので、なかなかうまくいきませんでした。将門は、中級官吏として出仕にながら、藤原摂関家のひとつ、藤原北家藤原忠平に仕えました。
 原因が何だったのかは定かではありませんが、将門は12年ほど京にいたあと下総国に戻り、父の領地だった佐倉ではなく豊田と猿島を本拠地としまず。そしてこの頃から身内と間で争いがおこり、戦ううちに将門は千葉北部から栃木あたりまで勢力を広げてゆきました。
 そんな将門を頼って、律令制の行き詰まりやそれに伴って行われた改革ではじき出された人々が集まってきます。

 興世王(おきよおう)は国司として派遣された土地で郡司の反発にあい、将門の仲裁でなんとか任地におさまったものの、今度は新たに派遣された上司とうまくいかず、将門のところへやってきました。
 この頃、郡司の権限を削って国司の権限を拡張したために、国司と郡司とは対立しやすくなっていました。加えて、武蔵国は、地元の富豪たちが郡司や前任の国司を味方につけて、国衙(役所)の言うことを聞かなくなっていたので、前任者赴任から二年ほど空位になっていた国司の座に、武蔵権守として興世王、武蔵介として源経基が赴任していたのです。
 それで一旦大騒ぎになり、それがちょっと落ち着いたところに正式な武蔵守として、百済王貞連(くだらのこにしきさだつら)がやってきたのです(「権(ごんの)」とは、「代理」や「副」という意味です)。二人が元々仲が悪かったのか、こういった経緯で仲が悪くなったのかはわかりませんが、興世王はわりに陰険な嫌がらせをされています。こういうことって、どっちがどうとかいうのは実際の所はわかりませんから、興世王が一方的にやられていたのかどうかは分かりませんけど

 そんな将門のところへ、『将門記』にはあまり良く書かれていない藤原玄明(ふじわらのはるあき)がやってきます。
 この人は、どうやら「土着受領」ってやつのようです。京都では出世が見込めない下級貴族が、国司として派遣された先で頑張って富を蓄え、任期が終わっても都へ帰らずにその地に居ついちゃった人です。ただ、それほど広大な領地や莫大な資産を持っていたわけではないようで、新たに来た国司に対して納税を拒否し、対抗する姿勢をみせていました。
 脱税は良くないですが、先ほど説明した事情もありますので、この新国司がどの程度の税を要求していたのかが問題のように思えます。そして、納税を渋るくらいの財産しか築けていないのに、任官の道を捨ててここにいた方がマシだと思えてしまう国家の制度が何よりの問題でしょう。
 常陸介、藤原維幾(ふじわらのこれちよ)は太政官の命令で藤原玄明を逮捕しようとしますが、玄明は将門を頼って下総に逃げます。将門は常陸国に出兵し、玄明の追補をやめるよう求めましたが、その時既に、維幾のバックには将門といがみ合っていた従兄弟、平貞盛がいたのです。あるいは玄明が将門を頼って行ったのすら貞盛の差し金ではないかと言われていますが、これらのことから平将門の反乱はおこりました。

 

 

日振島 うわじま観光ガイドHPより

 将門が京から地元に戻るか戻らないかくらいの頃に、藤原純友は、伊予掾(いよのじょう)として伊予国に派遣され、瀬戸内海の海賊鎮圧にあたっていました。伊予守として派遣される親戚のおじさんについて行ったようです。一度任期を終えて京に戻りますが、再び海賊追補の命を帯びて瀬戸内海に戻り、そこで1000艘の船を従える海賊の頭目になりました。
 と、まるでミイラ取りがミイラになったような語られ方をしてますが、どうも最初に鎮圧していた海賊と、純友が従えていた海賊衆とはメンバーが違うみたいなんです。
 純友が従えていたのは、最初の海賊制圧の時に一緒に戦っていた人たちで、彼等は海賊勢力を鎮圧した後も治安維持の名目で現地に残されていました。最初彼らは、海賊鎮圧で武功をあげ京で出世することを望んでこの任についたのです。ですが、そうならなかったことに彼らは不満をもっていました。
 この乱の後に、大蔵家の人々が大宰府の官職を世襲していた(筑前秋月家 その1参照)ことでもわかるように、この頃、実質的に官職は世襲されていました。親が任官し人脈を持っていれば、基本的にその官職を継ぐことを前提に社会生活がスタートし、コネクションのある上級貴族のサポートが貰えるわけです。しかし、子どもが社会に出る前にお父さんが亡くなってしまうと、その地位は後任の誰かのものになり、そこからはその一家が世襲していくことになってしまいます。
 そういう何らかの事情で京の貴族社会から弾き飛ばされた若者たちが、この討伐軍には多く参加していたようです。一発再起をかけた戦いで見事に武功を上げたのに、それらは上司である受領の功績とされたりなどして自分たちは地方に留め置かれたことが、彼等は不満でした。
 受領への反発と言う点では、討伐された側の海賊達も同じでした。おそらく彼らは、瀬や小島が多くて複雑な瀬戸内の海で、「各地からの租税を船で運んでやるから渡し賃払え」もしくは「租税を運ぶからそれを雑徭として認めろ」と主張していたのでしょうから、国司とは対立関係にあったはずです。
 純友も、早くにお父さんを亡くしていました。大叔父には藤原北家藤原基経がいますが、遠縁すぎて都での立身は望めないので、父の従兄弟というこちらもまた遠縁のおじについてくる形で、地方での仕事を得ました。そういった背景があり、シンパシーを感じた彼らと反乱の海賊旗を揚げることになったようです。


 平将門藤原玄明を匿ったことで常陸国と合戦になり、平家の内紛から朝廷への反逆へと発展したのが939年(天慶2年)。将門が常陸に続いて下野国上野国を占領したその年の12月、藤原の純友は摂津国須岐駅で備前介と播磨介を襲撃します。時期が同じなのは単なる偶然でしょうが、ここまでぴったりだと朝廷としては共謀を疑いますよね。でも、よく言われる比叡山で謀議したとかは事実無根のようです。

 朝廷は、年が明けてから小野好古(おののよしふる)と源経基(みなもとのつねもと)を山陽道追補吏として純友の追補に向かわせます。その一方で純友には官位を授けて懐柔し、兵力は将門の方へ全振りしようとしますが、純友は官位は受けたものの、瀬戸内での海賊行為はやめませんでした。
 将門が平貞盛藤原秀郷の軍と下総で戦っていたのと同じころの2月5日、純友は淡路島にあった武器庫を襲撃し武器を奪います。同じころ、京の各所で放火が発生したり、純友が京に攻め上るのを恐れて兵を配置していたところが焼かれたりしますが、この一連の放火と純友との関係は不明です。
 私は、直接の関係はなかったんじゃないかと思います。将門と純友に無意識の呼応ができたように、班田制の崩壊や課役の負担によって生まれた浮浪農民や、純友たちと同じように不満を持っていた下級官吏たちが、東西で発生した乱でなんだか慌ただしくなっている京都の様子を見て行動に出た、ということはありそうに思えます。彼らがどこまで情報を持っていたかはわからないので、なんか反乱がおこっているらしいと知って反乱軍に加勢したくなったのか、兵が動員されている様子等をみて更なる負担が自分たちにおよぶことに不安を覚えたのか、起因が何にしろベクトルは官軍に不利になる方へと向いていたのではないかと思うんです。

 2月末に平将門は討たれ、朝廷はいよいよ純友討伐に兵力を向けます。純友は一旦日振島(愛媛県宇和島市)に船を戻しますが、その後、さらに1年以上、純友は戦い続けます。
 941年(天慶4年)2月、ついに本拠地日振島が攻め落とされます。純友は九州に逃れ、大宰府を占領します。弟の藤原純乗は柳川に攻め込みますが、大宰権師橘公頼蒲池城で迎え撃ち、退けています。橘公頼はこのまま蒲池城の城主となり、子孫は筑後橘家として繁栄します。
 5月になると、いよいよ陸路から小野好古、海路から大蔵春実の軍がやってきます。純友は博多湾の戦いで敗れ、小舟に乗って伊予へ逃げましたが、警固吏の橘遠保に息子ともども捕らえられました。

 日振島には、純友にまつわる史跡が何カ所もあるそうです。写真で見ましたが、中世海賊好きにはたまらない、奇岩や崖だらけの複雑な形をした島です。行ってみたい!そして、ふくめん食べてみたいです!

ふくめん 農林水産省HPより



◆参考資料

農林水産省Webサイト:https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/index.html
うわじま観光ガイド:https://www.uwajima.org/spot/hiburijima.html
太宰府市公文書館Webサイト:https://www.city.dazaifu.lg.jp/site/dazaifushi-kobunshokan/
将門記