日本の隅っこの歴史

某所で郷土史をやっていた方が集めた膨大な資料(主に紙)をデジタル化する作業のため、紐解いた内容に少々個人的な感想を交えて書いていく、覚書的な性質の濃いブログです。 手当たり次第に作業していくため、場所や時系列などはバラバラです。ある程度溜まったら整理してまとめようと思っています。

荷持田村と層増岐野

 前回の記事で、日本書記に「荷持田村(のとりたのふれ)に羽白熊鷲あり」とあると書きましたが、その荷持田村について書くのを忘れていました。

 羽白熊鷲の勢力範囲が脊振山系から朝倉郡にかけてだということなので、荷持田村は羽白熊鷲個人の居住地でしょうか?日本書記の書き方はあっさりしすぎていてよくわかりませんが、そんな書き方ですよね?資料には、現在の朝倉市秋月野鳥、平成の大合併前は甘木市大字野鳥だったところ辺りではないかと書かれています。
 朝倉市秋月の秋月城武家屋敷なんかがある観光地の所から、小石原川の支流である野鳥川を遡るように秋月街道を古処山方面に上っていった所に、昔は野鳥村というのがあったそうです。
 古処山には、鎌倉時代に秋月氏の先祖である原田種雄が古処山城を築きました。住まいとしての城ではなく、軍事目的の山城ですね。普段は、現在秋月城のある付近に屋敷を構えて住んでいたそうです。古処山城は、一時攻め落とされて大友氏の手に渡ったりしながらも、豊臣秀吉九州征伐で廃城になるまで秋月氏の城でした。現在の古処山は、江戸時代から保護されてきたツゲの原始林が広がっていて、昭和2年に国の天然記念物に、昭和27年には国の特別天然記念物に指定されています。

 その山の中腹にある野鳥村には、神功皇后が陣営を置いたと伝えられる「后の森(ごうのもり)」があり、その森の中には皇后が座ったとされる「腰掛け石」があります。その他にも、熊鷲討伐の際の陣所だとか、戦地だとか、武器を補充した地だとかが沢山あります。

 それはともかく、羽白熊鷲を討つため荷持田村を目指す神功皇后は、層増岐野で兵を挙げます。
 層増岐野は、筑前町安野付近に比定されているそうです。昔は安野と呼ばれていた範囲が今より広く、東小田、四三嶋、下高場に広がる野原を指していたと言いますから、三方を山に囲まれたあの平野部をざっくり指していたんでしょうね。
 層増岐野の「そそぎ」は、「注ぐ」に通じていて、平地の中を貫流する川を意味していると考えられるそうです。これは河村哲夫先生が『西日本古代紀行』の中でお書きになっていることで、先生ご自身「極めて主観的な見解」と仰っておられますが、あえてのっかります!

 この、旧安野とされる場所は、盆地のようになっている平野部ですから勿論川はあります。宝満川支流の曾根田川とか、草場川とかなんですが、 う、う~~~ん。どっちもわりと小さい川…………。インパクト薄い………ような…………。平地を貫流してない「注ぐ」にはあたらないんですかね?東小田は、筑紫野市西小田との境が宝満川だし、四三嶋で区切らずにもうちょっと小郡の方まで安野と呼んだと仮定して、「宝満川に水が注ぎ込んでる野」にした方が私的にしっくりきますけど、どうでしょう?

 河村先生は、佐田川の上流に「すすぎ原」という場所があることも理由として挙げていらっしゃいます。神功皇后の軍が汚れた武器を川の水で濯いだという伝承があるのだそうです。佐田川は、下高場のあたりよりももうちょい東に流れています。上流だと、あまぎ水の文化村がありますね。一度行きましたが、夏に小さい子を遊ばせるのにいいところです。ただ、着替えは必須です。ずぶぬれになります。
 水の文化村より少し下った川の近くに美奈宜神社があります。神功皇后が創建されたと伝えられる神社のひとつです。美奈宜の名には羽白熊鷲が関係した言い伝えもあります。
 
 一方、貝原益軒著『筑前国風土記』では、層増岐野を別の土地に比定していて、それが、怡土郡、現在の佐賀市糸島市の間にある雷山です。
 雷山は層々岐山ともいかづち山とも呼ばれるそうです。夜須郡では軍兵が集まらなかったので、神功皇后は最初に帰服した伊都の縣主の所へ行った。雷山の麓から一里ほど登った雷村の中の高い所を層増岐と言ったので、そこに兵を集めて決起し、そこから、再び夜須郡へ行って熊鷲を討った。
 と『筑前国風土記』では言っています。

 河村哲夫先生や『夜須町誌』はこれに反論していますが、羽白熊鷲が山岳系の賊だったのなら、戦巧者の神功皇后が、同じ脊振山系の山に慣れた雷山の人々を集めたというのもあるような気がします。縣主がはやくから朝廷側だったのなら、ここの人たちも羽白熊鷲たちに物盗りにあって恨みを募らせていたかもしれませんよね。

 いずれにしろ、甘木に戻り、后の森をはじめとする七カ所の陣営に兵を配置し、西と南から熊鷲を攻めます。羽白熊鷲は、山沿いに北東方向へ逃げ、嘉麻市の益富山で討伐されたと『嘉穂郡誌』で伝えられています。その討伐された地付近を大熊郷と呼ぶのだそうです。
 ちなみに美奈宜神社では、朝倉市寺内ダムのあたりで討ち取られたとされています。嘉麻市で討ち取って、なんで朝倉に戻ってから「我が心則ち安し」って呟いたの?って疑問はありますものね。あ、隣か。


ではでは、今日はこのへんで。まだまだ神功皇后は続きます。

 

◆参考資料
朝倉市教育委員会のパンフレット

河村哲夫著 西日本古代紀行~神功皇后風土記~  (福岡県¥甘木・朝倉¥に¥にし¥西日本古代紀行)

三輪町史  (福岡県¥甘木・朝倉¥み¥みわ¥三輪町史)

 

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