日本の隅っこの歴史

某所で郷土史をやっていた方が集めた膨大な資料(主に紙)をデジタル化する作業のため、紐解いた内容に少々個人的な感想を交えて書いていく、覚書的な性質の濃いブログです。 手当たり次第に作業していくため、場所や時系列などはバラバラです。ある程度溜まったら整理してまとめようと思っています。

気づいたこと

 神功皇后についていろいろと書いてきましたが、当然、資料にあってもここに書けていないことも沢山あります。一番ブログの参考にすることが多かった河村哲夫先生の『西日本古代紀行』などは、神功皇后香椎宮から松峡宮に移動された時の道行き、それから、羽白熊鷲を討ってからの行程などを事細かに解説してあるんですよ。

 それを読んで思ったのが、

 

神社が多い!

 

ということ。

 事あるごとに神社造る。何か困ったら神社造る。上手くいったら神社造る。作らないまでも既にある神社に何か奉納するし、社に何か祀ったりする。なので、神功皇后にまつわる謂れのある神社がめちゃめちゃ多いんです。勿論、神社以外もあります。

 朝倉郡筑前町にある砥上岳の頂上に武宮という石の祠があり、武甕槌神(たけみかづちのかみ)をお祀りしてあるのですが、武甕槌神は、昨日の記事にも書いた春日大明神の一柱で、雷神であり武神です。この神様を祖神とするのが中臣氏で、中臣烏賊(なかとみのいか)がこの時神功皇后に付き従っていたそうです。

 で、昨日の大乙貴神社ですが、主な御祭神は大国主之命。こちらを祖神にするのが大友氏で、大友主命の主君が仲哀天皇ですから、本人または一族の誰かは従軍していたはずです。

 

 ああ、そうか。と思いました。

 

 政治にしろ軍事にしろ日常生活にしろ、神や鬼が何かにつけて影響していると考えられていた時代です。日本書記にも、逐一審神者を立てては神に伺いを立てる描写が出てきます。

 生活の様々な場で祈りや呪いや祭祀を行うことが当たり前。そしておのおのの氏族がそれぞれに祖神を持っていて、天皇や皇后が祭祀を行うとなれば、その場にふさわしい神を祖とする一族の者がその祭祀を取り仕切るし、自分が陣頭に立ってある土地を平定したら自分達の祖神をその地に祀る。そんなことをごく自然にやっていたのかもしれません。

 そして何より

 

仏教がまだ来てない。

 

そっか、四世紀五世紀の話だ。仏教がまだ伝来してないんだ。日本は仏教が伝来して初めて、"神"に拮抗するイデオロギーの出現を見る。別の観念というものの存在を、まだこの時の日本人は知らないんだ。

 

 なるほどー。と、思いました。

 息をするように神を感じる生活。八百万の神がそこここに存在する生活の様子を、垣間見られるのは、歴史の重箱の隅をつつくような郷土史ならではかもしれません。

 ま、今の所そこまで深くは探求していないのでそこまで大袈裟な発見ではないですが、なんだかすごく納得した気分になりました。

 

 あ、砥上岳は、山頂まで40分くらいで行けるそうですよ。お近くでトレッキングなんかされる方は、いいかもしれないです。多分、途中にあるもののほぼすべてが神功皇后に関係してます(^▽^)

 

ではでは、また~

 

砥上岳:福岡県朝倉郡筑前町曽根田

 

◆参考資料

 河村哲夫著 西日本古代紀行~神功皇后風土記~ (福岡県¥甘木・朝倉¥に¥にし¥西日本古代紀行)