日本の隅っこの歴史

某所で郷土史をやっていた方が集めた膨大な資料(主に紙)をデジタル化する作業のため、紐解いた内容に少々個人的な感想を交えて書いていく、覚書的な性質の濃いブログです。 手当たり次第に作業していくため、場所や時系列などはバラバラです。ある程度溜まったら整理してまとめようと思っています。

筑前秋月家 その3

どうにも区切りが悪いのですが、前回筑後川の戦いまで書いてたので、その後をちょろっと書いておきます。
 
 筑後川の戦い以来、九州で菊池氏をはじめとする一勢力を保持していた懐良親王は、1351年に大宰府を攻略。以後、大宰府を征西府とします。観応の擾乱・武蔵野合戦・八幡の戦いで機内と関東以北は一応大人しくなり、南朝の最大勢力は九州にいる彼等たちとなっていました。
 京都で北山文化が花開くまでもう少しという1372年。当時14歳の征夷大将軍足利義満は、九州探題として今川貞世、大内義弘を派遣します。(実際は管領として将軍を補佐していた細川頼之の指示らしいですけどね。)早速、九州探題は早速南朝討伐に乗り出し、就任の翌年には大宰府を取り返し、1381年に菊池氏は本拠地の菊地を失い、1392年(明徳3年)の南北朝統一の時に今川貞世菊池武朝が和睦します。

 そうやってずーっと九州で戦いながら勢力を拡大していたのが大内氏・少弐氏・大友氏です。大内氏は元は周防(山口県の瀬戸内側)の国司で、そこから守護大名になり、北朝側として足利氏の伸長とともに勢力を拡大。室町時代の末には、周防・長門、石見、豊前筑前の守護を務めていました。応仁の乱には、原田家とその一門の秋月家・波多江家・原家・江上家・三原家・高橋家などが大内家に属して戦ったと『筑前軍機略』に書かれているそうです。
 そして、世の中は戦国の世になりました。
 秋月家は少弐氏に従っていたようですが、大友・少弐 VS 大内の戦いが始まり、京都に熱烈に働きかけて大宰大弐になった大内義隆と戦って少弐資元が敗北すると、秋月氏大内氏の配下となります。が、1551年(天文20年)秋月氏が主君とする大内氏の頭首、大内義隆陶晴賢の謀反により自害に追い込まれます。その後、義隆の息子、大内義尊も陶軍に討たれ、周防大内氏が事実上消滅すると、秋月氏は大友氏の配下にはいります。
 しかし、大内氏、陶氏、尼子氏を謀略をもって掌の上で転がしてきた毛利元就がついに中国地方を手に入れ、九州に手を伸ばして来ます。毛利元就は、九州進出にあたって元大内氏家臣の秋月氏や筑紫氏にコンタクトをとってきました。秋月文種はこれに乗って元就と内通、それと知った大友氏に攻め込まれ、古処山城へ籠城しますがこの戦には負け、文種は自刃し長子の晴種は討ち死にした(陰徳太平記)とか、、臣下の小野九郎衛門が主君の文種を殺して投降した(西国太平記)とか。防州へ逃れようと江川へ行った(口伝)とか、いろいろと伝わっているようです。
 文種父子がどうしたにせよ、この戦で領地もほとんどが召し上げられ、秋月氏は一旦滅びます。

 晴種は一人っ子ではなく、他にも兄弟がいました。

 文種の三男、種冬は古処山城を脱出した後、なんだかんだで高橋鑑種の養子となり、高橋種冬と名乗ります。『豊前軍略記』では鑑種が大友氏に謀反を起こし、高橋家の家督を召し上げられた後、小倉城を譲った、とあります。また、一緒に養子に入っていた秋月元種が秋月種実の弟、とされています。どうも秋月元種は、「種実の次男で種長の弟」説と、「文種の五男」説があるようですね。『豊前軍略記』では、「高橋鑑種は秋月文種の子を嫡子として小倉城を譲り、高橋大蔵少輔種冬と名乗らせた。また、種実の弟元種を次男とし、自らと共に香春城に住まわせた」と書かれているようです。書き方ややこしいよ。
 
 四男の種信は、脱出後次兄の秋月種実とともに再起を図るべく活動していましたが、『豊前軍略記』によると、共に戦っていた豊前長野氏当主が戦死したため、長野家を継いで長野種信となり、京都郡の馬ヶ岳城の城主となります。
 が、城主となってわりとすぐに、豊臣秀吉の九州平定が始まり、馬ヶ岳城は秀吉の本陣となります。なので、種信は秀吉側となり、兄の種実と戦うことになってしまうんです。

 晴種には妹もいたようですね。名前は伝わっていませんが、原田親種に嫁いでいます。この原田親種もなかなか壮絶な最後を迎えるので、奥様も御苦労なさったんではないかと思います。

 戦国の世に城主の家に生まれたためか、兄弟皆、それぞれ過酷な人生を歩んでいます。そして、秋月氏としても、この次男種実の時代がハイライトと言われています。


 では、その秋月種実はどうだったのか。

 弘治3年(1557年)の古処山城落城時、『秋月家譜』によれば当時十三才だった秋月種実は、家臣に連れ出されて落城寸前の古処山城から逃げ出して、同盟関係にあった毛利元就を頼って周防国(山口)へ身を寄せていました。先ほども書きましたが、秋月家の領地はこの戦いでほぼ大友家に奪われるのですが、わずかに残った領地を秋月家旧臣の深江氏が守っていました。
 ここから、異説もあるようですが、『筑前秋月家の研究』をベースにしますと、北九州における大友氏と毛利氏の争いで勝利した大友氏は、永禄2年に足利将軍家に多額の金を送り、6月には豊前筑後守護職に就いています。どうもこのあたりから高橋鑑種は、大友氏を面白くなく思っていたようで、毛利氏に密かに通じていたようです。て、手始めに山口にいる秋月種実を手引きして古処山城を奪い返し、種実はそのまま古処山城で大友氏と対抗します。

 永禄10年(1567年)大友の三宿老と呼ばれた戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速らが秋月めがけて攻めてきます。種実は高橋鑑種とともに甘水・長谷山の戦いで激戦し、毛利氏が九州攻めを始めるという噂に浮きたって休松城から撤退する大友軍に夜襲を仕掛けて同士討ちを誘い、山隈城まで追撃して大友軍に出血を強いたそうです。
 翌11年には、現在の糟屋郡新宮町・久山町付近の立花城を落された立花鑑載らからの救援に応じ、毛利氏が本格参戦。吉川元春小早川隆景に五万の兵を与えて九州に送り出しました。立花城を挟んで、博多湾から木の丸殿付近にまで及ぶ広域な範囲で行われた戦いは、遭遇戦だったと書かれています。
 しかし、永禄12年(1569年)5月多々良浜の戦いで毛利軍は敗退。九州派兵で手薄になった中国で活発になっていた尼子家復興活動に加え、10月には大内輝弘が大内家再興活動まで起こします。これにより、毛利家は九州にいる兵を引き上げることにし、立花山城を包囲していた毛利勢も撤退したため、大友氏の勢いは盛り返し、九州は大友氏と、九州西部でじわじわと勢力を広がていく龍造寺、薩摩に加えて元の所領だった大隅と日向を取り戻したい島津の三氏て鼎立となります。


 秀吉の九州平定まで書こうと思っていましたがいったんここで切ります。魅力的でキャラの濃い面々があっちこっちで戦っているので非常にややこしい戦国時代も、後程九州中心でおさらいいたします。

 

 オリンピックも始まりましたねえ。開会式場がセーヌ川アウステルリッツ橋からイエナ橋まででしたね。パリのセーヌ川にかかってる橋は全部ナポレオン絡みの名前がついてるんでしょうか?私の好きな武将は、項羽ハンニバル・バルカとオリバー・クロムウェルです(笑)

 ではでは、暑い日が続きますが皆様お気をつけてお過ごしください。


◆参考資料
 田代政門著 舊志に據れる筑前秋月家の研究 (\福岡県\甘木・朝倉\ち\ちく\筑前秋月家の研究)
 秋月種樹編 秋月家譜 (\福岡県\甘木・朝倉\あ\あき\秋月家譜)