日本の隅っこの歴史

某所で郷土史をやっていた方が集めた膨大な資料(主に紙)をデジタル化する作業のため、紐解いた内容に少々個人的な感想を交えて書いていく、覚書的な性質の濃いブログです。 手当たり次第に作業していくため、場所や時系列などはバラバラです。ある程度溜まったら整理してまとめようと思っています。

羽白熊鷲と橿日宮と松峡宮

 7月になりましたね。全国のあちこちで大雨が降っていますが、皆様の所は大丈夫でしょうか?皆様が恙なくお過ごしになりますよう祈っております。

 

 予告通り、羽白熊鷲(はしろくまわし)について書いて行こうと思います。

 日本書記では、荷持田村(のとりたのふれ)に羽白熊鷲あり、と書かれています。手元の資料によれば、羽白熊鷲は儺県(福岡市)の南方、脊振山系から朝倉郡にかけて勢力を持っていた土酋の一人、だそうです。「土酋」とは、先住民の統率者のことだそうなので、羽白熊鷲という人が率いる集団がいたんですね。「羽白熊鷲」ってう集団がいたのかと思っていました。

 日本書紀では羽白熊鷲について「その人となりは強健で、翼があり高く飛ぶことができる」と書いています。手元の資料では、鷲を崇める山岳系の部族の長で、鷲を象った頭巾を被り、白い羽のマントを身に着けていたのかも、と書かれてます。と、いうのも、佐賀県東脊振村の瀬ノ尾遺跡から、嘴がついた仮面を被って羽飾りをつけた人物を描いた土器片が見つかったんだそうです。ですから、そういういで立ちをした人たちが、九州にいたのは間違いない、ということです。

 あれですね。山の民的な人たちですね!かっこいい!瀬ノ尾遺跡の土器片さがしてみました。勝手に写真掲載してはいけないと思うので、リンク貼ります。↓

     佐賀県文化財データーベース

 ちょっと見づらいかなと思ったんで、へたくそですが図解してみました。が、余計分かりにくい💧私、絵心ない…………

右は想像図です

鉛筆書き部分が見づらくてすみません。スキャンではファイル形式があわなかったので、写真です。

 右のような絵が土器に書かれていて、下半身はもっと欠けています。資料には「刀の鞘を下げている」と書かれていましたが、私には右のように見えました。右手も欠けてて何を持っているかはわかりません。想像図では思わず槍を持たせてしまいましたけど、鳥のように山の中を飛び回っていたのなら、長得物はもっていないですよね。

 私の勝手なイメージでは、蛮刀みたいなので樹上から羽飾りをはためかせて襲ってきそう。そして、敵が来たら「ギイイイイイイイ!!!」とか鳥の鳴き声っぽいので仲間に知らせてそうです。かっこいいけど、それだと軍を率いて攻めて行っても、向き合って対峙して、いざ尋常に勝負!とはなりませんよね。もっぱらゲリラ戦になりそうです。

 

 話を日本書記に戻します。仲哀天皇が亡くなった年の3月17日、神功皇后は橿日宮(かしいのみや)から松峽宮(まつおのみや)に入られます。

 橿日宮は香椎宮ということで良いようです。現在の香椎宮は、主祭神として仲哀天皇神功皇后、副祭神として応神天皇住吉大神をお祀りしています。熊襲征伐前から三韓征討後までここを拠点に動かれていますので、香椎宮には仲哀天皇神功皇后、それに武内宿禰など主な臣下までのゆかりの場所や物があちこちにありますが、私は以前にある方から聞いたお話がすごく印象に残っています。

 どのようなお話かというと、仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后は神のお告げ通り新羅征伐するまで、天皇が亡くなったことを隠して事を進めることにします。それで、きちんと御陵に納めるまでの間、仲哀天皇の亡骸を死臭がしないように樫の棺におさめて、戦に向かった。と、いうのです。

 ですが、今回頂いた資料の中に一切そのことについての記述がなく、この話が何某かの裏付けのあるものなのかどうかわからなかったんです。神功皇后自体の実在も危ういとはいえ、なんの謂われもなく根も葉もない話は書けません。

 で、見つけました。

棺掛椎

画像は香椎宮公式HPからです

 現在の香椎宮の古宮と呼ばれている橿日宮跡に、『棺掛椎(かんかけのしい)』という椎の木があります。亡くなった仲哀天皇の御棺をその木に吊るして、あたかもそこに天皇がいらっしゃるかのように会議などを開いたそうで、その時に、その椎の木からとても良い香りが広がった、という『香椎』の地名に関する謂れがあるそうです。

 何がどう究極変換されて、死臭を誤魔化す樫の棺になったんでしょう?おそらくは私の記憶違いなんでしょうけど。

 香椎宮に伝わるのは『棺掛椎』のお話です。皆様は、誤解のないようにお願いします。

 

 橿日宮から遷られた松峡宮について、筑前国風土記では、筑前町栗田の松尾という所だという説と、宝満山の西の麓にある松ノ尾というところだという説と両方併記してあり、太宰管内志や日本書記通証では筑前町栗田とされているようです。

 筑前町栗田は、縄文時代のものとされる栗田遺跡があったり、弥生時代の甕棺墓群も発掘されていて、昔から開けた豊かな土地だったことがうかがえます。栗田の北側には目配山という山があり、山頂の四角い岩に神功皇后が座って四方を眺めたという言い伝えから、目配山の名がついたといいます。

 また、松峡八幡宮という神社もあります。近くには神功皇后がいらっしゃったという行宮の森や、神功皇后が船を繋いだとされる船繋ぎの石があるそうです。2キロばかり東には、大乙貴(おおなむち)神社があります。この神社に関しては、また後日書きたいと思っていますが、ここも神功皇后ゆかりの神社です。

 こうなると、筑前町説が有力に見えますが、そういう趣旨で書かれた資料が手元にあるからそう思えるのかもしれません。

 

 日本書記に戻ります。戦いの経過などはわかりませんが、皇后は20日に層増岐野(そそきの)に行き、兵を挙げて羽白熊鷲を討ち取り、戦いは決着します。

 その時、「熊鷲を取り得て、我が心則ち安し」と仰ったので、この地を安(やす)と名付けた、と書かれています。

 この地が夜須という地名の由来と言われています。平成の大合併筑前町ができるまでは夜須町ってあったんですが、今は夜須の名は残っていません。明治の頃は、「夜須」はもっと広くて、夜須郡だったようです。「安」ではなく「夜須」なのは、713年に元明天皇が発した「郡郷の名は今後好ましい漢字二字で表記せよ」という勅令があったために改められたのだろうと手元の資料では考察されています。「夜須」の地名は残っていませんが、「安野」という地名は残っていて、その辺りが羽白黒鷲との決戦の地、層増岐野ではいかと言われています。

 が、資料における地名の比定地が複数出るのが古代史の常。層増岐野も安野説以外に雷山説があったりもします。それに伴って、「安」も「夜須」ではないとも言われています。

 

そんなわけで、長くなったので層増岐野についてはまたにします!

 

 香椎宮:福岡県福岡市東区香椎4丁目16−1

松峡(栗田)八幡宮:福岡県筑前町栗田605

 

◆参考資料

日本書記

河村哲夫著 西日本古代紀行~神功皇后風土記~   (福岡県¥甘木・朝倉¥に¥にし¥西日本古代紀行)

夜須町の民話解説  (福岡県¥甘木・朝倉¥や¥やす¥夜須町の民話解説)

 

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