日本の隅っこの歴史

某所で郷土史をやっていた方が集めた膨大な資料(主に紙)をデジタル化する作業のため、紐解いた内容に少々個人的な感想を交えて書いていく、覚書的な性質の濃いブログです。 手当たり次第に作業していくため、場所や時系列などはバラバラです。ある程度溜まったら整理してまとめようと思っています。

熊襲

 熊襲、熊鷲、土蜘蛛。これらは、九州にあった大和朝廷とは別個の勢力のことです。熊襲と羽白熊鷲は、おのおの独立した特定の勢力を指すようですが、土蜘蛛は九州に色々いる土着勢力の総称の事のようです。昔は東国と呼ばれていた、関東以北の勢力を蝦夷と呼んでいたのと同じですね。

 神功皇后はほぼ関係ないのですが、先ず、熊襲について書いて行こうと思います。

 

 おそらくは大和朝廷がまだ完全に九州を掌握出来ていない頃、景行天皇は即位12年に熊襲征伐のため、九州巡行を行います。景行天皇は第12代天皇なので、神功皇后の御主人である仲哀天皇の2代前の天皇です。

 8月に出立し、途中、周防の国や豊後の国で賊や土蜘蛛を倒しながら10月に日向の国に入り高屋宮という行宮を建てます。

 熊襲は、球磨(熊本)と曽於(鹿児島)一帯に勢力を持っていました。そしてその首領とされるのが、厚鹿文(あつかや)とか熊襲梟師(くまそたける)と呼ばれる人物ですが、一人ではなく兄と弟の二人でした。

 天皇は、この二人を討ち取るために計略をたてます。

 熊襲梟師の娘、市乾鹿文(いちふかや)、市鹿文(いちかや)姉妹(兄と弟どっちの娘かは不明)に、珍しい宝物をいろいろ与えて懐柔し、天皇は市乾鹿文を召して寵愛します。

 で、日本書記に曰く

 市乾鹿文は妙案があると言って兵を二人ほど借り受け、熊襲梟師の元に戻り、こっそり父親の弓弦を切った上で父親を泥酔させ、兵に殺させた。天皇はこれをお知りになると、「親殺しなど、甚だしい不孝だ」と、市乾鹿文を殺し、妹の市鹿文は火国造に娶せた。

 …………どう思います?私はここまでが天皇の計略に思えるんですけど。だって、懐柔の一環として寵愛したって、それってそういうこt………………………………すみません、黙ります。

 

 その後、景行天皇は首領が殺されて混乱した熊襲を平定しました。

 しかし、27年の秋、また熊襲は動き出し、辺境を侵犯し始めます。

 そこで、天皇小碓命(をうすのみこと)を熊襲征伐に遣わします。小碓命は、またの名を日本童男(やまとのおぐな)尊称を日本武尊(やまとたける)。日本書記ではこの戦いの最後に敵から尊称として贈られるんですが、面倒なので日本武尊とします。ちなみに、天皇に噂の美人姉妹をちょっと見て来いと言われて、見に行った先で当該美女と密通して天皇に嫌われた大碓命とは双子です。

 

 この時の熊襲の首領は、取石鹿文(とりしかや)またの名を川上梟師(かわかみたける)。『タケル』ってなんなんでしょう?他にも八十梟師(やそたける)とか出てきますよね。何か意味がありそうなので調べた所、語源としては「たけ」は『猛』。驚くべき勢いの状態をさすらしいです。「梟師」は『「たけ」の状態に導く人』。集団を鼓舞する頭の意味のようです。

 日本武尊が偵察したところ、この川上梟師が新築祝いのために一族皆を集めていたんだそう。そこで、日本武尊は女装し、宴会の女たちの中に紛れこみました。

 言い忘れていましたが、この時日本武尊は16歳。さぞかし美少年だったんでしょう。女装も美しかったようで、さっそく梟師の目に留まります。梟師は日本武尊の手を握って隣に座らせ、酒の相手をさせて戯れかかります。

 そして、夜が更けて客がまばらになり、梟師もしこたま酔ったところで、日本武尊は隠し持っていた剣で梟師を刺し殺しました。その後、連れてきた仲間たちと一人残らず斬り殺し、帰路では悪い神様を二人ほど殺しながら凱旋します。

 

 それから、仲哀天皇の頃にまた熊襲が背いて貢物を持ってこなかったので、またまた熊襲討伐に向かいます。手元資料によれば、この頃の熊襲は勢力を脊振山系にまで伸ばしていたと考えられるようです。勢力拡張してるんですよ。

 日本書記の記述だと、何度も一族皆殺しされたって書かれていますが、それでもその度に盛り返してきますよね。多分、小集団がたくさんあって、ひとつの集団は潰せても熊襲全てを潰すことはできなくて、他の集団とは朝廷にそれなりの物を献上する約束で和睦しているんじゃないでしょうか。なので、毎回最初は「貢物をもってこなかった」になっているんでしょう。

 日本書記の仲哀天皇が負けた記述はすごくあっさりしていて、その後吉備鴨別が、12日だけであっさり勝ったようになっていますが、現実的に考えれば、仲哀天皇は自分が矢傷を受けるくらい熾烈な戦いをして、熊襲側も相当な損害を被っていたから、再戦を仕掛けられたらあっさり降伏した。神功皇后もそうなることが分かっていたから、軍を二手に分けて、自分は羽白熊鷲の方へ向かうことができた。ような気がします。

 

 ではでは、今日はここまでにします。次は多分、羽白熊鷲です。

 

 追記:スターをつけて頂いた記事があって、すごくびっくりしました!ありがとうございます!今後ともご興味ある記事がありましたら、読んで行ってくださいませ。

 

◆参考資料

 日本書記

 西日本古代紀行~神功皇后風土記~ 河村哲夫著   (福岡県¥甘木・朝倉¥に¥にし¥西日本古代紀行)

 

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