日本の隅っこの歴史

某所で郷土史をやっていた方が集めた膨大な資料(主に紙)をデジタル化する作業のため、紐解いた内容に少々個人的な感想を交えて書いていく、覚書的な性質の濃いブログです。 手当たり次第に作業していくため、場所や時系列などはバラバラです。ある程度溜まったら整理してまとめようと思っています。

神功皇后伝承おさらい

 字だらけの記事が続きますが、先にこれをやっといた方が後が書きやすいので、福岡の古代史語りに欠かせない、神功皇后のおさらいをしておこうと思います。

 神功皇后は、実在の人物ではないとか、何人かのエピソードを纏めて一人の人物として語られたものだとか言われていたりもます。まあ、そうかもしれませんし、そうでなかったとしても誇張や神格化はされているでしょう。

 なので、どこまでを史実とするかは置いておいて、今回は神功皇后がどんなことをしたと言われているかをざっくりおさらいします。そしてこの先しばらく各エピソードを細かく見ていくことになると思います。

 では、スタート。

 

 神功皇后というのは諡号なので、本来のお名前は気長足姫(おきながたらしひめ)。第十三代天皇成務天皇40年にお生まれになりました。それが西暦で何年かはわかっていませんが、4世紀の人だったと考えられているようです。

 仲哀天皇2年1月皇后に立てられ、天皇と共に角鹿(敦賀)の笥飯宮(けひのみや)へ移ったそうです。へえ!福井県にいたんですか!

 3月、紀伊の国にいらっしゃった天皇が九州へ熊襲征伐に赴かれると聞いて、ご自身も向かわれます。穴門豊浦宮(下関市長府)で天皇と合流され、仲哀天皇8年、筑紫橿日宮で、熊襲征伐はやめて新羅を攻めるよう神託をうけます。皇后は天皇にそれを伝えますが、天皇は神託を信じず、予定通り熊襲征伐に向かわれました。外征する前に国内を安定させようと思ったんじゃない?と、考えるのは私だけでしょうか?

 ところが、仲哀天皇熊襲に敗けてしまい、年が改まって、仲哀天皇9年2月に橿日宮(香椎宮)で亡くなってしまします。日本書記では、熊襲に受けた矢傷が原因だったとされています。

 皇后は仲哀天皇の遺志を継いだのか、3月には吉備鴨別(きびのかもわけ)に一軍を与えて熊襲討伐に向かわせ、ご自身は朝倉郡筑前町の松峽宮(まつおのみや)へ移って、羽白熊鷲を討伐する兵を挙げます。

 鴨別の方はわりとあっさり熊襲を下したようです。手元にある民話の歴史解説によれば、熊襲の側が自ら降伏したように書かれています。神功皇后の方も層増岐野(そそきの)で羽白熊鷲を討ちました。

 皇后はそのまま筑後川下流の山門へ赴き、土蜘蛛の女王、田油津媛(たぶらつひめ)を討ち取ります。

 9月、神功皇后肥前松浦にいて、昼食中に願をかけた釣りをします。『うけい』という占いのようなもので、「いまから〇〇をやるので、××になったらこれからやることも上手くいく。□□になったら失敗する」というものです。神功皇はお食事中だったので、裳裾の糸に針(縫い針?)を曲げて作った釣り針をつけ、それに飯粒をつけて小川に投げ込み、朝鮮出兵の成功を占ったそうです。鮎が釣れたそうです。

 皇后は一度橿日宮に戻った後、筑紫夜須に大己貴命・天照皇大神・春日大明神を祀る於保奈牟智神社を造って、太刀、鉾を献上し、軍備を整えます。そして10月、神功皇后は妊娠していたのですが、戦の途中で産気づかないように、お腹に石をつめて(腰に石をあてて、っていうのも見たことあるが)出陣しました。結果、新羅に人質と献上品を出させて、地図と戸籍も手にいれたとか。それを見た百済高句麗朝貢することを約束した、とか。

 12月。筑紫に帰国した神功皇后が、詰めていた石を取ると皇子が産まれたそうです。それでここを宇瀰(うみ:宇美)と名付けられたといいます。ただ、神功皇后紀では宇瀰だけど、応神天皇紀では蚊田らしいです。

 開けて神功皇后摂政元年。穴門豊浦宮に戻り、仲哀天皇の殯を済ませてから機内へ戻りました。

 

 今後なにかと必要になりそうなのはここまでですが、折角なのでもうちょっと

 機内に戻る途中、神功皇后は、誉田別尊(ほむたわけのみこと:応神天皇)が産まれた事を知った他の皇子が彼を亡き者にしようと待ち受けている事を知ります。皇后は誉田別尊を人に預け、明石海峡から武庫川に上陸し進軍します。後退を重ねる忍熊王と山背で決戦になりますが、ここで皇后軍は「互いに武器を捨てて和睦しよう」と言って、兵たちに弓の弦切らせて刀も捨てさせます。忍熊王軍もそれに倣ったところで、皇后軍はすかさずスペアの武器で襲い掛かったんだとか。

 恋と戦争にはあらゆる戦術が許される。ですか?ジョン・フレッチャーが産まれるまで1100年以上ありますけど!!

 その後は、新羅から人質で来ていた微叱己知(みしこち)に逃げられたり、百済倭国朝貢するための品を新羅に奪われたと訴えてきたので、百済とともに新羅を攻めに行ったりなどして、摂政になって69年後の4月に神功皇后崩御されました。

 

 年月はに日本書記に基づいていますので、旧暦です。

 これに基づいて、次回からいくつか記事を書いていきます。

 

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ではでは