日本の隅っこの歴史

某所で郷土史をやっていた方が集めた膨大な資料(主に紙)をデジタル化する作業のため、紐解いた内容に少々個人的な感想を交えて書いていく、覚書的な性質の濃いブログです。 手当たり次第に作業していくため、場所や時系列などはバラバラです。ある程度溜まったら整理してまとめようと思っています。

斉明天皇の朝鮮出兵に至る歴史おさらい

 斉明天皇中大兄皇子朝鮮出兵に関する記事が続きましたので、ちょっとこの辺の歴史をおさらいしたいと思います。
 高校の日本史の教科書を読んでみましたけど…………うん。わからん。
 なので、私が納得できるようにあれこれ調べて書いていきます。

 

 西暦300年代ごろからの朝鮮半島は、小勢力が乱立するいわば群雄割拠状態だったようです。その中で倭国こと日本も朝鮮半島で影響力を持つべく、半島の南端で日本列島からほど近い任那と言う勢力を応援します。勿論無償ではなかったようで、任那からはいろいろ貰っていたようです。いつ頃からかというと、日本書記などに神功皇后が出てくるころには、任那は既にあるものとして書かれているので、私なんかが調べる程度じゃよく わかりません。。。。任那については、お隣韓国とも認識の差がいろいろあるみたいです。
 雑多な小勢力は、100年以上かけて高句麗百済新羅の三国に集約されていきました。その過程で、562年に任那新羅に滅ぼされます。

 西暦300年代から500年代までは、朝鮮半島がくっついている大陸の方でも長い戦乱の時代が続いていました。が、589年に楊堅が久々に中華統一を達成し、隋を建国します。中華、主に漢の後継国家が国内を平定し、西の国境に一応の安泰を見ると次に何をするか。半島への領土拡大を画策します。特に高句麗は、紀元前に漢の武帝衛氏朝鮮を滅ぼして配置した、漢四郡を奪って建国(313年)されているので、ここを奪還するのは、いわば中華の悲願なんですね。なるほど。

 そういうわけで、590年代頃からたびたび高句麗は隋の侵攻を受け始めます。朝鮮半島の南の二国は唐の高句麗出兵に連動して高句麗を攻めたり、あるいはそうして高句麗に攻め込んでいるもう一方の国に攻め込んだりするようになります。
 そしてどうやら、ここに倭国を絡めてきたのが百済のようです。倭国新羅に『任那の調』を要請し、筑紫に兵を駐屯させて圧力をかけた。とありますので、「お前、任那を併呑したろ?あそこは俺らに税払ってたんだよね。勝手に乗っ取ったんだから、それなりのもん払ってくれよ」って感じの名目で圧力をかけていた、ということでしょうか?
 高句麗は、隋から攻められる都合上、隋の更に西側にある突厥、この頃、隋の調略によって東西に分裂していた東突厥と手を結ぼうとしています。
 613年の反乱と618年の皇帝暗殺をきっかけに隋は内乱状態になりますが、15年ほどで李淵に制圧され、唐王朝が統一中華を形成します。

 三国がずっと小競り合いやにらみ合いを続ける中で、642年、前年に新しく義慈王が即位した百済は、新羅に攻め込みます。そして伽耶地方を中心に40以上の城を落すことに成功します。同じ年の年末近くに、唐の侵攻に備えて長城建設をするなどしていた高句麗の淵蓋蘇文がクーデターを起こして実験を握ります。高句麗百済は翌年に和睦を結び、孤立した新羅は善徳女王らが結束して国内を固めることになります。
 へえ。新羅は女王大丈夫なんですね。倭国もこのちょっと前まで推古天皇だし、この頃は女性の天皇OKなんですよね。どうしてこんなことを言うかと言うと、この後、あの人が出てくるからです。

 唐は630年に東突厥支配下に置いています。てことは、高句麗は唐を挟み撃ちしてくれる相棒を失ったことになります。西突厥と鉄勒はまだ残っていますが、いちおうしばしの安定をえたのでしょうか。644年、太宗皇帝は高句麗遠征を始め、淵蓋蘇文のクーデターを口実に攻め込みますが、安市城攻略にてこずっている間に西の方から鉄勒が攻めてきたので撤退します。
 この第一次高句麗遠征で太宗が洛陽に滞在している時に、玄奘三蔵がインドから帰ってきて、長安に皇帝がいなかったので洛陽まで帰国報告にきたっていうエピソードが、個人的にとても好きです。経典を翻訳する勅許を取るのが目的だったみたいですね。

 さて、高句麗が唐の侵攻を辛くも防いだ翌年の645年。朝鮮半島は大旱魃に見舞われ、飢饉がおこります。しかし、新羅に大勝して調子に乗っていた百済義慈王は、酒色に溺れて政治を顧みなくなっていたそうです。そうなる前に、とても独裁的な体勢を作ってもいたようですね。当然、飢饉対策も何もなされなかったようです。
 655年には、宮殿の修繕を行ったともいわれています。王太子扶余隆のためだったと書いてあるものもありましたが、どうなんでしょう?656年。王の様子を見かねた成忠という臣下が王に諫言しますが、王は成忠を投獄。成忠は獄死したそうです。
 と、こんな感じで百済はがたがたでした。多分、飢饉による人口減少も甚だしかったことでしょう。

 一方、新羅高句麗百済から圧迫され、唐の援助がなければ立ち行かないところまで追いつめられていました。何とか新羅の王統は保ったものの(唐からは、現王を廃して唐の皇族を王に迎えろと言われてた)あとはすっぱり割り切って、律令制度も年号も唐のものに切り替え、国内改革を行っていきます。なんとなくGHQ支配下の日本のようです。国体護持できればあとはどうとでも!みたいな。

 唐も唐で、高句麗攻略にてこずっていました。そこで、「ここは一旦高句麗はおいて、先に百済を片付けるか」と、方針を転換します。

 そんなこんなで660年3月。海路から唐が、陸路から新羅が攻めこみました。事がここに至っても百済大本営は全く機能せず、現場の将軍たちが独自で防衛をしますが、新羅軍を苦しめはしても防ぎきることはできませんでした。ついに7月、唐・新羅軍は首都泗沘城を包囲。義慈王は泗沘城を脱出して逃亡しますが、結局降伏して唐の捕虜となり、百済は滅亡します。

 この時、唐は実質的に武則天支配下にあったといわれています。高宗は存命中なので、まだ武則天は帝位に着いてはいませんが、垂簾聴政を行っていたとされています。中華は女性が帝位に就くことを認めないので、政治を牛耳る女性、まして皇帝になった彼女は『悪女』なんですよねえ。結構いい政治してるように思えるんですけどね。宮中は粛清の嵐だったけど、それは男の皇帝にもいるじゃん、そういう人。ねぇ?

 で、その武則天with高宗は、百済を滅ぼした後、軍主力を本来の目的である高句麗に差し向けます。すると手薄になった百済国内で、百済残党が蠢動しだします。百済復興運動の中心人物として、鬼室福信と黒歯常之と道探の名が残っています。ですが、義慈王も第一王子第二王子も唐の捕虜になってしまっています。百済復興勢力としては、旗印として担ぎ出す人物が欲しかったようで、倭国に救援を求め、倭国にいる二人の王子のうち、扶余豊璋を帰国させるように求めます。
 豊璋だけでなく、扶余勇も倭国にいましたが、帰国せずに残っています。ここで担がれなかったということは、兄弟順が下だったんでしょうか?二人が倭国にいた理由は、人質として来日していたということですが、何故倭国が人質をとれる立場だったのかは、私が調べた程度ではわかりませんでした。
 百済出兵について、大和朝廷内で意見が分かれたのは事実のようです。ただ、最終的に何故出兵と言う結論に至ったのかは諸説あるようです。唐に半島を取られたくない、と、願わくばずっと三すくみでいてほしい、っていう気持ちは分かる気がします。

 ともあれ、倭国百済救援を決め、斉明天皇は難波で船を作らせ、661年には那の大津から磐瀬行宮に、そして橘広庭宮に移りますが、三か月経たずに亡くなってしまいます。
 先ずは661年5月、安曇比羅夫らが170隻あまりの船と、1万人余りの兵を連れて、豊璋を百済に送り届けます。翌年三月には主力軍として上毛野君稚子らが二万以上の兵を。更に第三陣として廬原君臣が一万余の兵を率いて百済に駆けつけたといいます。
 こうして白村江の戦いが始まりました。

 ご存知の通り結果は惨敗でした。白村江の戦いの内容については、またいずれ、必要に迫られたら書くことにします。随分長くなりましたし、今回は、橘広庭宮ができた経緯と当時の周辺国の状況のおさらいということで、ここでおわります。

ではでは、また